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日本キリスト改革派
   大垣教会  月報
 
生命のいずみ
 
(第9号 2004年10月)
 
 
 
 

巻頭言   旧約聖書を学ぶことの意義    辻 幸宏


 ローマ書の連続講解説教を終え、10月から旧約聖書創世記の連続講解説教に入りました。初め、このことを委員会でお話しした時、少し驚かれました。現在の多くの教会において、旧約聖書は、夕の礼拝もしくは祈祷会や他の集会で話されることはあったとしても、朝の礼拝においては話されることなく、新約聖書からのみ説教されているのだと思います。その理由は、イエス・キリストが登場せず、また伝道的ではないからだと思われているからでしょう。だからこそ、驚きの声が出てきたことに対して、私自身はやはりそうかと思いました。
 ところが、「聖書」とは、皆様もご存じの通り、旧約39巻、新約27巻、合計66巻が合わさって「聖書」と呼ばれるに値するものです。従って、「新約聖書」のみでは、律法と福音の全てを語り尽くすことは出来ないのです。もちろん、主イエス・キリストの十字架の死と、死からの復活、昇天による罪の赦しが、キリスト教の中心的な教理であることは疑いないことで、それを脇に置くことは出来ません。そして旧約聖書から説教を行っていたとしても、常にキリストの十字架を覚えつつ、またその中心に説教していかなければなりません。
 しかし、私たちが、旧約聖書から学ぶことにより、神様が人間をどの様な目的で創造され、救いに導いて下さろうとしているのかが見えてきます。また、繰り返されるイスラエルの罪を見ることにより、私たち自身が、真に主なる神様から遠い存在であり、罪深く、救いに値しない存在であるかが見えてきます。この自らの姿が示されなければ、主イエス・キリストによる救いを語ったとしても、信仰が表面的、感情的になってしまうおそれがあります。またさらに、私たちに罪がありながらも、主は、私たち一人一人を愛して下さり、主イエス・キリストの十字架によって罪の赦しと救いをお与え下さったのです。ここには、私たちの徳も、努力も、功績も、まったくありません。主の一方的な愛によって与えられた恵みです。
 だからこそ、旧約聖書から説教を語ることが、伝道的ではないことなど、決してありません。恐れてはなりません。私たちは主なる神様を畏れはするものの、他の何をも恐れる必要はありません。また信仰は、主が聖霊を通してお与え下さるのであり、私たちは、語られた御言葉に、御霊が働き、まだ主を告白していない人が信仰を告白するように、祈り続ければよいのです。



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