【ラジオ説教】  「神様に喜ばれること」  辻 幸宏牧師



  マタイによる福音書6章16〜18節 (新共同訳聖書)

6:16 「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。
   偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言って
   おく。彼らは既に報いを受けている。
6:17 あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。
6:18 それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見て
   いただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくだ
   さる。」


 今も教会の活動として断食を行っているところもあるかと思いますが、多くの教会、そして多くのクリスチャンにとっても、今は断食を行っていない方も多いかと思います。私自身、断食を行ったことはありませんし、また私は、ここで断食をしなければならないのか否かを、私はお話ししようとは思いません。ただ断食という一つの神様への礼拝行為に対して、聖書はどの様に語っているかを共に考えていきたいと願っています。
 では聖書では、どの様な時に断食がなされたのでしょうか。旧約聖書申命記9:18では、この様に書かれています。「主の目に悪と見なされることを行って罪を犯し、主をいきどおらせた、あなたたちのすべての罪のゆえに、わたしは前と同じように、四十日四十夜、パンも食べず水も飲まず主の前にひれ伏した」。モーセがホレブ山に登り、40日間滞在し、神様から十戒を授かっている最中に、イスラエルの民は自分たちの神として金の子牛の像を造ったのです。このイスラエルの罪に対する悔い改めとしてモーセが断食をしたことが、語られています。
 ここでお分かりの通り、断食は、あくまでも自発的な神様への礼拝行為であります。神様を礼拝し、讃美し、誉め讃えることと同様に、あくまでも神様に対しする礼拝行為です。つまり、断食を行うことにより、神様の救いを信じるあなたの信仰が問われるのです。そして、神様を礼拝する行為としてなされた断食は、神様によって受け入れられ、喜ばれる行為とされます。従って、断食を行う事も、また神様を礼拝する他の行為においても同じ事が言えますが、ここに神様に対する私たちの信仰の告白が示されなければなりません。

 ではいかがでしょうか? 自分が「断食をしているのだ」と人々に宣伝することも、人々から誉めてもらおうとすることも必要ないのです。そうした行いは、神様に対する礼拝行為ではなく、自分が他の人たちからいかに素晴らしい人間であるかを認めて貰おうとする人間的な行いとなるからです。

 だからこそ、私たちも、断食をする時ばかりでなく、神様を礼拝する一つ一つの行為においても、人に見せびらかせて行ったり、人に誉めてもらう思いで行うのではなく、神様に喜んでいただくために、行いましょう。
 こうした行為にこそ、神様は喜んで下さり、神様からの祝福がもたらされます。

                            (2003.9.7 CBCラジオ「キリストへの時間」放送)

COPYRIGHT(C) 2003 辻幸宏  ALL RIGHTS RESERVED


戻る