【ヨハネの手紙一 連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「神を知り、神に従う人生」  ヨハネの手紙一 2章1~6節



ヨハネの手紙一 2章1~6節

  2:1 わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。2:2 この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。2:3 わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。2:4 「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。2:5 しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。2:6 神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。  



Ⅰ.創造主なる神
 皆さんにとって神さまとはどのような存在でしょうか? 信仰を心の問題、精神的な事柄と捉えている人がいます。彼らは、行動(生活)とかけ離れたものとなるのです。二元論です。そうなれば聖書を読むことも少なくなり、教会に行かなくても平気になってしまいます。別の言い方をすれば、そういう人にとって神さまは非常に小さな存在です。自分の心の中にいれば良いのであり、自分の必要な時にのみ、求める神さまなのです。つまり、あなたという存在が前提にあり、神さまを心の中にしまい込み、自分が主体であり、神さまは従属的になっているのです。
 しかし私たちが考えなければならないことは、「あなたにとっての神さまとはどのような存在なのか?」ではなく、神さまはどのような方として存在されているかです。つまり、第一義的に、神さまはどのようなお方として存在されているかを考えなければなりません。つまり、御父・御子・御霊なる神さまは、天地万物をお造りになり、今も全世界を治めておられるお方です。私たちが今、命が与えられて、生きているのも、神さまの恵みによって生きているのです。神さまは、私たちの心の中に収まるような小さな存在、概念的な存在ではありません。この世のすべてのものすべてを御支配し、司られているお方です。愚かな金持ちの譬え(ルカ12:13~21)、アナニアの話し(使徒5章)を忘れてはなりません。
 生きて働く主なる神さまの御前に私たちは命が与えられているのであり、私たちは主によって作られた被造物です。だからこそ、三位一体の神の御前に、私たちは畏れをもって生きなければならないのです。神を知るからこそ、神の大きな御力を知り、主のお語りになる御言葉にひれ伏し、聞き従うものとされていくのです。つまり主なる神さまは、裁きを行われる恐ろしい神ではありません。神さまを知ろうともせず、知らないのに否定するからこそ、主の裁きが示されるのであって、主の御力を知り、主を畏れて生きる時、主は私たちを救いの中、命をお与え下さり、主の恵み・祝福に満たして下さいます。

Ⅱ.仲保者イエス・キリスト
 しかし一方、主の御前に畏れを持ち、主の命じられる律法に聞き従って、キリストに倣って生きようとしても、罪人である私たち人間は完全に律法を全うすることはできません。失敗を繰り返し、罪を繰り返すのです。しかし主なる神さまは、「だからお前はダメだ」とはお語りになりません。それでもなお、主を信じ、主の御言葉に聞き従おうとする姿を主は良しとして下さるのです。そして、その罪のために、御子であり、弁護者、つまり仲保者であるイエス・キリストの存在をお示し下さいます。
 キリスト賛歌がフィリピ書2:6~8に記されています。神の御子が、貧しい家に生まれられたのです。そして律法を司られるお方が、律法に仕え、人々に仕えられたのです。そしてキリストは地上での約33年と言われる生涯にわたり、罪を一つも犯すことなく、律法に仕えられたのです。これは、最初の人アダムとエバが主なる神さまの御前に果たすことの出来なかった律法への服従を、御子は地上での生涯において成し遂げて下さったのです。
 その上で、キリストは罪のない状態で逮捕され、死刑判決を受け、十字架で苦しみ、死を遂げられました。この十字架の死こそが、わたしたちの罪、いやわたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。キリストを救い主として信じるすべての人の罪を、御子は十字架の苦しみと死において担って下さったのです。

Ⅲ.神を知ることこそ、信仰の第一である
 創造主であり統治者である父なる神さま、救済主イエス・キリスト、そして聖霊をとおして今も私たちが神と共にあり、私たちは命が与えられて、罪が赦されて、天国における永遠の祝福の希望に満たされ、神さまの栄光を誉め称え、喜びの内に生きているのです。
 私たちは、働いている場では、上司の命令に服従することが求められます。学校では、学校の先生に聞き従うことが求められます。職務違反を行えば、辞職を迫られることもあります。だからこそ皆、大変な思いをもって聞き従うのです。上司や先生と、主なる神さまとどちらが偉いのか? 創造主であり、私たちの罪を償ってくださった御父・御子・御霊なる神さまと比べることなど出来ないのです。私たちは神さまが求めておられることに聞き従わなければなりません。主は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」、「隣人を自分のように愛しなさい」と求めておられます。

                                     (2012.11.4)

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