【ヨハネの手紙一 連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「永遠に生き続ける信仰」  ヨハネの手紙一 2章15~21節



ヨハネの手紙一 2章15~21節

  2:15 世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。2:16 なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。2:17 世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。
  2:18 子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。2:19 彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。2:20 しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。2:21 わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。



 今日、衆議院選挙が行われています。政教分離を盾に「教会は政治に対して何かモノを申すべきではない」と語る人もいます。しかし政教分離とは、政治が宗教に介入し支配しないように求めているのであって、キリスト者の立場から、生活、強いては政治が良くなるように発言していくことは必要なことです。主が求めている平和を実現するため、憲法9条や第20条の信教の自由を変更しようとしている党を指示すべきではありません。また、何万年もの先、廃棄物の処理を求め、危険を強いる原発を動かし続けてはいけません。

Ⅰ.「世」に対して
 神さまは「世も世にあるものも、愛してはなりません」と語ります。神さまは天地万物を創造されたのであり、それは素晴らしかったのです。そして人間を神さまの栄光を称えて礼拝し、すべてのつくられたものを管理することが求められました。しかし人は、罪を犯し、神さまから離れました。この神から離れた人たちが形成しているのが「世」です。彼らに対して、主の教えを語り、キリスト者の立場を示していかなければなりませんが、私たちが彼らの生活を愛し、彼らの生活に入っていくことはしてはなりません。

Ⅱ.「世」を愛さない理由
 つまり、私たちキリスト者は、主イエス・キリストの十字架の贖いにより罪赦され、神の子にされたのです。神から離れ、罪の内にある「世」とは大きな隔たりがあるのです。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)。私たちは光である神に属し、闇である世に属する者ではないのです。
 また世の者は、神の栄光を現すことはなく、「肉の欲」、「目の欲」、「生活のおごり」しかないのです。具体的に「肉」とは、罪の性質であり、十戒の後半で、次のように記されています。⑥殺してはならない。⑦姦淫してはならない。⑧盗んではならない。⑨偽証してはならない。⑩隣人の家をむさぼってはならない。実際に罪を犯そうとすることが、肉の欲であり、人間の持っている罪から発せられる欲望から生じてくるのです。
 肉の欲だけですと「私はそのようなことはしない」と語られるでしょう。しかしヨハネは続けて目の欲と語ります。ウェストミンスター小教理問答書 問82は、次の様に語ります。問 神の戒めを完全に守れる人が、だれかいますか。答 ただの人は、堕落以来、この世では、だれも神の戒めを完全には守れず、日ごとに思いと言葉と行ないにおいて破っています。罪を犯すことだけではなく、言葉において、さらに心の中で思うだけでも神の御前にあっては罪です。
 第三は生活のおごりです。世の人々はブランドを求めます。ブランド品を買うこと自体が悪いことではありません。良いものを、愛し、長く用い続けることは良いことでしょう。ブランド品は、技術的にも美的にも優れているものが多いのです。しかし、「ブランド志向」と呼ばれることの問題は、モノをモノとして本来ある目的に用いることが主体となるのではなく、モノを持つこと自体に主体が移り、それを自己目的化することが問題です。
 この様な、「肉の欲」「目の欲」「生活のおごり」は、世から出たものであり、罪の支配の中にあり、御父から出たものではないのです。だからこそ、私たちはどのような時にも、信仰の目をもって判断しなければならないのであり、常に主のお語りになる命令、つまり御言葉に聞き続け、主の御前に祈りつつ、世にあって生きていかなければなりません。

Ⅲ.世は一時的である
 2:17世も世にある欲も、過ぎ去って行くのです。世のものはいずれ朽ち果て、天国に持っていくことは出来ません。ですから言い換えるならば「世」は「闇であって、この闇の世界に「光」を照らして下さったのが主イエス・キリストです。キリストの十字架の贖いによって救われた者は、すでに永遠に生きる者と変えられ、この世のモノ・今に執着する必要はなくなるのです。
 しかし「世」にあって存在する教会もまた、「世俗化」します。私たちは「改革派教会」と名乗っています。日々、御言葉によって改革され続けなければなりません。それは、「世」に染まることなく、御言葉に生き続け、御言葉を実践し、救いの喜びに生き、神を礼拝し続け、祈り続ける民であり続けることです。キリストの十字架によって、罪赦され、永遠の生命が与えられた者として、感謝と喜びをもって、日々主に仕えて歩み続けよう。

                                     (2012.12.16)

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