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【礼拝説教】  「主による希望」  辻 幸宏牧師

ペトロの手紙一1章3〜5節

  3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、4 また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。5 あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。



T.三位一体なる神を誉め称える
 ペトロは書き始めの挨拶で、主なる神さまのご計画に基づく救いの豊かさと、人々のことを思うペトロの愛を語ります。3〜5節も同様のことが言えます。3節では主イエス・キリストの父である神が誉め称えられています。つまり主イエス・キリストには御父がおられます。日々私たちに働きかけて下さる聖霊を加え、三位一体の神を意識しています。御父は私たちの救いの全てをご計画し、御子は永遠の御父から生まれ、御父の救いのご計画を成就されました。そして今、私たちに聖霊が働いています。つまりペトロは、父なる神の賛美を、聖霊を通して主イエス・キリストによって語り、父・御子・御霊なる三位一体からなる主なる神さまであることを告白します。私たちは今、この三位一体なる神さまを礼拝しているとの意識が重要です。イスラムの神でも、神道の神々でも、作られた偶像でもなく、永遠からおられ、天地万物を無から創造し、全てを統治しておられる、父・子・御霊の交わりの内に、私たちとの深い交わりの内にある神さまです。また三位一体の交わりに愛があるからこそ、被造物である私たちを思い、愛し、私たちの苦しみ・悲しみをも知り、共有し、私たちの祈りを聞き遂げて、助け出して下さる神さまでもあるのです。

U.旧約における祝福と十字架に伴う新生
 続けてペトロは、神さまが私たちにお与え下さっている憐れみの業を語ります(3b)。無限・永遠・不変の霊である主なる神さまだからこそ、私たちに命を与え、殺すこともお出来になります。旧約聖書では、アブラハムが主によって選ばれて以来、嗣業の土地が与えられる事を繰り返し語ります。実際にアブラハムはウルからカナンまで導かれたのであり、ヤコブの時代にエジプトに下りますが400年後にモーセによって出エジプトを果たしカナンに帰還します。さらにイスラエルの罪の故に捕囚の民とされ世界中にイスラエルは散りますが、それでも主はイスラエルを約束の地に帰還させて下さいます。これは、旧約の時代に永遠の生命が約束されていなかったのではなく、救い主キリストが来臨される準備をされていたのであり、彼らもメシアによる永遠の生命の希望に満たされていたのです。
 旧約の民も、新約の時代のキリスト者も、誰一人、罪の刑罰なしに、永遠の生命は約束されていません。キリスト者にとって、キリストの十字架が徹底的に重要な意味を持つのです。しかしペトロはキリストの十字架を語りません。ペトロはキリストを三度も「知らない」と罪を犯したことがトラウマとなっていたからではありません。その証拠としてペトロは2:24、2:21、3:18、4:1、4:13においてキリストの十字架に言及します。何よりも、この手紙を読んでいる教会のキリスト者たちが、今、信仰の故に苦しみ信仰の戦いが強いられているのであり、彼らに対する励まし、希望を伝えようとしているからです。
 そしてペトロはキリストの十字架に与ることを、別の表現「新たに生まれさせられた者(新生)」と語ります(参照:ヨハネ3章)。キリスト者はキリストの十字架に与ることによって肉の体は死に、キリストにあって新しく生まれます。だからこそ主を信じる者は、滅び行く肉の体を棄て、キリストが復活を遂げられたように、肉体の死を遂げても復活の体が与えられ、永遠の生命が与えられる者とされるのです(4節)。
 朽ちず、汚れず、しぼまない財産はすでに天国にあります。その中に、神さまによってキリスト者とされた者は入れられるのです。これはどういうことか。私たちはキリスト者とされ、朽ちない祝福に満たされているのですが、なおも地上の歩みを続けています。地上の歩みは朽ち、汚れ、空しい財産に囲まれているのです。天における創造者であられる方からの永遠の生命と全ての祝福に与っている者が、なおも地上における朽ちていくものを追い求めていくのですか?必然的に、生活は変化し、神の国を求めます。もちろんこれは金儲けを行わず、地位を求めず、世離れした生活をするのではありません。主が地上にお与え下さった数々の賜物を用いて生活します。ただそれらにおぼれないと言うことです。

V.主の約束と私たちの姿勢
 また、この神の国において与えられる汚れず、朽ちず、しぼまない財産は、地上のどれ程の富や権力によっても得ることの出来ない祝福があるからこそ、地上の生涯にあって、信仰の故に迫害を受けることに対しても忍耐し、それを乗り越える力が与えられるのです。主は地上の生涯において、苦しいけれども信仰を守ったら、天国における祝福をお与え下さるとは語りません。私たちに努力することを求めておられるのではなく、神の力が私たちを覆い、信仰から離れず誘惑に陥らないように、迫害の手から守って下さるのです。
 では、私たちはどうすればよいのか。私たちは主を信じることにより、すでに全ての罪は赦され、新生しています。しかし今なお地上における朽ちていくものの中にあり、私たち自身もなお罪人です。行い・言葉・心の中で、主の御前に罪を犯しています。この自らの弱さを認めることが第一です。その上で、私たちの全てを知っておられる主に全てを委ねることです。主は私たちの苦しみを全て御覧になり、私たちを救いに導く程愛して下さるからこそ、主御自身も私たちの苦しみを担って下さいます。だからこそ、私たちは主に祈ることが出来るのです。主は私たちの祈りを聞き届けて下さいます。また、苦しみが続いたとしても、私たちを守り支えて下さり、天国における永遠の祝福をお与え下さいます。
 天国における永遠の生命の祝福は約束されています。主の手元に、その契約書があり、私たちは神の国の住民になる住民登録はすでにされているのです。私たちは今から聖餐式に与りますが、キリスト者はこの聖餐式に与ることにおいて、新生し、神の国の永遠の生命と祝福にあることを確認するのです。それと同時に、まだ信仰告白をしていない子どもたちと求道中の方々は、自らの口で罪を告白し、主なる神さまによって救いが与えられ、永遠の生命に与るように、今、うながされているのではないでしょうか? 今すぐでなくても、主による救いを受け入れ、信仰を告白する日がもたらされることを、切に祈ります。

                                     (2008.1.13)
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