トップ > 説教要約一覧 > Tペトロ書説教(1章)


【礼拝説教】  「魂の救い」  辻 幸宏牧師

ペトロの手紙一1章8〜9節

  8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。9 それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。



序.
 私たちは、生活が順調に行っている時・嬉しい時には喜ぶことが出来るでしょうが、苦しい時・艱難にある時に、喜ぶことは出来ないかと思います。しかし聖書が語ることは、私たちの生活が、どれだけ苦しい時にも、私たちは主イエス・キリストへの信仰の故に永遠の生命が約束される祝福にあり、本当の喜びに満たされていると語ります。

T.ペトロのキリストとの出会い
 さてペトロは「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛している」と語ります。ペトロ自身は、生けるキリストと共に生活し、復活のキリストにも出会いました。私たちとの大きな違いです。しかしペトロはイエスを主と受け入れることが出来ず、逮捕されたイエスのすぐそばで、イエスを「知らない」と三度語ったのです(ルカ22:54-62)。またキリストが復活された時も信じることができず、目で確認するために真っ先に飛び出して行きます(ルカ24:12)。つまりペトロ自身、復活のキリストに出会わなければ信じることの出来なかった一人であり、「復活の主イエスに出会い、この指を釘跡にいれてみなければ、決して信じない」と語っていたトマス(ヨハネ20:25)と同じです。
 そうすれば「自分を棚に置いて」と言いたくなるでしょう。しかし、ペトロは物理的にキリストと出会ったばかりか、信仰の目をもって復活のキリストとの出会いもあったのです(ヨハネ21:15〜19)。ペトロは復活のイエスと出会い、罪が赦されていることを確認したのです。そしてキリストの十字架の意味を理解したのです。この時、ペトロの霊的な目、信仰が開かれたのです。ペトロは主イエスが自分の罪の赦しと救いの故に、十字架にお架かり下さったことを知り、主の愛を受け入れたのです。主イエスがペトロを愛していて下さっているからこそ、ペトロも主イエスを愛し、主イエスを宣べ伝える者とされるのです。

U.キリストとの出会い
 では私たちがキリストを愛するとはどういう事であるのでしょうか? 私たちがキリストを愛するとは、頭の中だけの概念や哲学であってはなりません。私たちがキリストと出会うとは、キリストの実存との出会いが必要です。もちろん私たちは直接目でキリストを見ることは出来ません。キリストは天におられ、聖霊を通して私たちと今共におられます。私たちは今も生きて働くキリストがおられることのリアリティーが問われているのです。
 復活の主イエスはペトロと出会い「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛しているか」と三度も確認するほどペトロを愛されました。ペトロはキリストのその愛を知り、受け入れたのです。それと同様に、キリストは天上にあって、私たち一人一人を愛して下さり、私たちのために執り成しの祈りを献げて下さっています。ペトロが罪を犯したにも関わらず、キリストは赦して下さったように、私たちをも愛し、罪を赦して下さっているのです。
 この目で見ることが出来ないにも関わらず、天におけるキリストと聖霊によって出会い、交わり、愛を確認することが出来る情況を、ペトロは「言葉では言い尽くせないすばらしい喜び」であると語ります。人間的な知識では理解しがたく、語り尽くすことの出来ない出来事が、聖霊の働きによって存在するのであり、ここに信仰が成立するのです。

V.キリストに結ばれる
 そして私たちは天におられるキリストと聖霊を通して出会うことが求められます。それはまさしく、私たちがキリストの十字架と連なることです。キリストの一回限りの十字架により、キリストを信じる私たちの一生における全ての罪の償いとなったのです。私たちはキリストを主と信じて洗礼に授かりますが、その時、キリストの十字架との結びつきを確認し、キリストの十字架によって救われたことを確認しなければならないのです。
 だからこそ、主の晩餐において私たちは、パンを食することによりキリストの十字架で裂かれた体を、ワインを飲むことによりキリストの十字架で流された血を想起するのです。私たちの永遠の生命が、キリストの十字架と切っても切り離すことが出来ないほど重要であるからこそ、私たちは聖餐式毎に、そのことを確認するのです。
 さらに私たちがキリストの十字架に連なることは、キリストの復活による永遠の生命に与ることです。「あなたがたは信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」(9)。「魂」とは、概念的・抽象的になりがちですが、「生命」とも言い換えられます。「魂」と「体」と分けて「魂」のみを考えてはなりません。「魂の救い」とは、私たちの体全体の救いのことです。
 だからこそ、私たちは、今、一時の苦難、迫害があり、苦しまなければならないとしても、それ以上に揺るがない永遠の生命の希望に満たされ、信仰の故に喜びに満たされて生きていくことが出来るのです。

                                     (2008.1.27)
COPYRIGHT(C) 2007 日本キリスト改革派大垣教会  ALL RIGHTS RESERVED



戻る