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【礼拝説教】  「あなたがたの救い」  辻 幸宏牧師

ペトロの手紙一1章10〜12節

  10 この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。11 預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。12 彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました。それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです。



T.信仰に生きるとは
 ペトロは10節の冒頭で「この救いについては」と語ります。3〜9節において語られてきた生き生きとした希望を与える永遠の生命に関して語っています。救われながらも迫害や苦しみの中にあるキリスト者に対して、ペトロは、あなたたちはもう永遠の生命に生きていることを語ります。それは地上における朽ちていくような財産ではなく、朽ちることなく、私たちにとって最も祝福されたものが永遠の生命によって与えられるのです。そのため、今、苦しみの中にあったとしても、それは金が精錬される如くに私たち自身の罪が清められ、聖化されることであり、主は決して私たちを捨て置かれることはなく、本当にすばらしい喜びに満ちあふれさせて下さるとの約束をお与え下さったのです。
 私たちは、信じて救われることを考える時、まず自分や家族、そして周囲の友人を中心に考えてしまい、聖書に登場する人たちを自分たちと同じ目線で考えることはありません。しかしペトロは旧約の預言者に言及して語り始めます。つまり主なる神さまが天地万物を創造されて最初の人アダムから数え、旧約の民、そしてイエス・キリストの弟子たち、新約の教会に繋がる者、さらにこれから救われる民も、同じ救いに導かれるのです。救いは、主による永遠の選びによるのであり、天地万物の創造の前に、主は全ての神の民を選ばれ、救われることをご計画されていたのです。主が一方的に私たちに救いの契約書を作成し、それを執行して下さっているのです。従って、私たちに示されている永遠の生命の救いは、旧約の時代にも示されており、イエス・キリストによって始まったものではないのです。
 そのため救いは長い歴史の中に脈々と受け継がれてきているのであり、個人的にしてはなりません。「キリスト教会など古くさい」との言われ方もします。しかし主なる神さまによる救いに与ることは、たかだか1・10・100年といった短い次元で、生まれては消えていく薄っぺらいものではないのです。主のご計画によって示される私たちの救いは、不変であり、非常に厚みをもったものなのです。そのため、私たち自身の信仰がたとえぐらついたとしても、主による救いが消え失せるような浅はかなものではないのです。

U.旧約の時代の救い
 では、旧約の預言者たちについてペトロはどのように語っているでしょうか(10〜11)。預言者たちは主からの御言葉を与り、イスラエルの民に預言を語りますが、それを語らしめたのはキリストの霊です。2000年前にお生まれになられたキリストが、旧約の時代にお語りになります。それはどういうことか?父なる神の御子キリストは、永遠の神として存在されており、天地創造の時に言葉(ロゴス)を発せられる事により天地万物を創造し、旧約の時代に預言者たちに主の預言をお語りになります。何も2000年前に初めてお生まれになったのではないのです。その真の神であり、父なる神の御子であるキリスト御自身が、私たちを救うために人として遜り下さったのです。つまり、真の神である方が真の人となられたのです(二性一人格)。そして人となられたキリストが、私たちの罪を背負って十字架にお架かり下さり、私たちの罪を贖って下さったのです。
 ロゴスであるキリストは旧約の預言者たちに何を語らしめたのか? 救いが与えられから悔い改め、主を信じなさいということです。そのために、御子御自身が受肉し、十字架における苦難を担われ(詩編22編、イザヤ53章)、復活して栄光に入れられる(詩編2編、110編)ことを預言されたのです。そのため彼らは救いをもたらして下さる約束のメシアを待ち望みつつ、主の御前に悔い改めと信仰生活を送るのです。
 つまり、私たちが救いを考える場合、すでに2000年前にお生まれになられ、十字架の苦難と復活の御業を成し遂げられたキリストを顧みるのですが、旧約の民にとってはキリストはまだ受肉されていないわけで、これから与えられる救い主を待ち望みつつ、自分たちの救いの希望を持っていたのです。そのため旧約の民は、救いをおぼろげにしか見えていませんでした。そのため主をを礼拝するのも、預言・いけにえ・割礼・過越の子羊等、ユダヤ人の民に与えられたさまざまな予型と規定、によって執行されるに留まったのです。
 しかし私たちには、すでにキリストの救いの御業が成し遂げらました。もう新しい啓示は必要なく、啓示の書は旧新約聖書によって示されているのです。またすでに罪の贖いがキリストによって成し遂げられているからこそ、一度洗礼に与れば良く、繰り返し生け贄を献げる必要はないのです。

                                     (2008.2.3)
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