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【礼拝説教】  「キリストの再臨を待つ」  辻 幸宏牧師

ペトロの手紙一1章13〜16節
  13 だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。14 無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、15 召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。16 「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。



T.神の国の祝福に与る者として
 ペトロは、キリストによって召されてキリスト者は、神の国における永遠の生命の祝福にあることを語ってきました(3-12)。神によって創造され、神の被造物である人間は、神の子として、永遠の生命に与ることが最大の祝福であり喜びなのです。
 一方ペトロは「だから、いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」(13)と語ります。永遠の生命の祝福とどの様な関係があるのか?「心を引き締める」とは「心の腰に帯を締める」ことです。日本では殆ど着られることがなくなりましたが、着物を着ると動き回ることが出来ません。ですから働くために動こうとすれば、人々は着物の裾を上げ、裾を止めるのです。すると動き回ることが出来るのです。同様にキリスト者として生活する時も、いつでも動ける状態にすることが求められているのです。それは信仰故の誘惑があるからです。誘惑には、他人からもたらされる外的な誘惑と、私たち自身の問題である内的な誘惑があります。
 第一の外的な誘惑は、迫害・虐げです。権力者は、キリスト者を虐げることがあります。そして背教を求めます。それは、権力者が従順な民を求めるからであり、正義を貫くためが故に為政者に罪を告発するキリスト者を嫌うのです。このように権力に媚びずに主が示される正義を貫こうとすれば、私たちは常に心を引き締めておく必要があるのです。
 第二に私たち自身の弱さから来る罪への誘惑があります。これは権力・富を得るための罪への誘惑と、世俗社会に流され主が示される真理を次第に忘れ、結果として罪に誘い込まれる誘惑があります。今、インターネットを初めとして様々な娯楽・情報が世に満ちています。これらすべては一般恩恵の恵みとして主が私たちにお与え下さったものです。私たちはそれを賢く用いていくことが出来るのです。しかし一方、これらには様々な罪が潜み、サタンは誘惑を仕掛けて来ます。時間を奪い、生活を破壊し、生活費をむしばみます。
 だからこそペトロは「心を引き締めなさい」、「身を慎みなさい」と語るのです。誘惑に誘われることなく、主の御前に自らの姿を照らしだし、自らの罪を顧み、主の御言葉に従うことが求めらます。キリストは今、天に座しておられますが、最後の審判の時、再臨されます。この時に全てのキリスト者は、神の御前での最後の審判において、無罪と宣告され、神の子としての永遠の生命の祝福が与えられるからです。キリストはすでに十字架の御業でサタンに勝利されましたが、神の国の完成はこの時を待たなければならないのです。

U.神の知識によって与えられる規範
 次にペトロは14〜15節を取り上げます。「無知」とは、神の知識・神の知恵に対する無知です。これは神のことを聞いたことがなく知らない無知もありますが、すでに神の言葉を聞き、聖書を知識として知っている者でも、この無知に該当する人がいます。神の真理を理解していない人で、律法学者やファリサイ人などがそれにあたります。彼らの旧約聖書の知識はすばらしいものです。彼らは聖書を教える教師であり、人々の罪に対する裁きも行っていたのです。しかし彼らは、神の真理・神の愛を全く理解できずにいたのです。また主イエスが十字架に架けられ死を遂げられるまでのペトロ自身や、復活の主イエスと出会う前、キリスト者を捕らえ迫害していたパウロも同様です。
 本当ならば、キリスト者はすでにこの無知の状態が過去のものでなければなりません。しかし長い信仰生活から来る慣れから、あるいはペトロのように本当の意味での復活のキリストに出会っていないキリスト者もいるのです。
 神の知識に対する無知である時、人には律法の規準はありません。もちろん国の法律は示されていますが、それを人々は押しつけられたものと受け止め、自分勝手な解釈を行います。彼らの規準は自分であり、自我です。そのため、人は世の欲望に溺れるのです。権力・金銭の欲望のままに生活を送り、隣人であり家族や友人すらも虐げ、傷つけるのです。
 しかしキリストと出会い、罪の赦しと救いが示された時、生活は改められます。なぜならば、主はキリストの十字架の故にあなたの罪が赦されたと宣言し、救いをお示しになると同時に、律法という罪の規準を私たちにお与え下さるからです。律法(十戒)は、今までの生活における行い・言葉・心の罪を示し、悔い改めへと示すと同時に、キリスト者として生活する時の生活の指針となるからです。私たちは律法に従うことにより罪の誘惑から主によって守られているのです。つまり律法とは「守らねばならないもの」とのイメージがありますが違います。主の愛により律法により、私たちが守られているのです。そのためキリスト者は、主がお語り下さる御言葉に聞き続け、神の真の愛を知り、律法の意味をより深く知り、神の御前に従順にキリストに倣う生活することが求められているのです。
 私たちが主の日毎に、主を礼拝するのは、もちろん主の求めでもあるのですが、私たちがキリスト者として真の神を知り、律法を知る上でも、必要なことなのです。

 「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」。

                                     (2008.2.10)
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