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【礼拝説教】  「乳飲み子のように」  辻 幸宏牧師

ペトロの手紙一2章1〜3節

  1 だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、2 生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。3 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。



T.罪から離れろ!
 1章の最後でペトロは、キリストの十字架の贖いにより朽ちない生命が与えられたキリスト者は、今までの生活とは異なる新しい生活が求められることを語ってきました。そして2章に入り、具体的にどの様な生活が求められているかを語り始めます。「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去りなさい」(1)。一つ、二つではなく全ての悪です。これ位のことならば許されるであろうと言うような安易な考えではダメなのです。
 また、ここには似たような言葉が並べられています。私は、この様なリストが並べられていますと、一つに纏めて読み進んでしまいがちなのですが、しかしここにこうしたリストが並べられている事には、理由があるかと思います。
 「悪意」これは、「罪」とも言い換える事が出来ます。主なる神さまに逆らう全ての行為、言葉、心の罪です。そして続く四つを「偽りと偽善」、「ねたみと悪口」の二つに分けることが出来ます。前者は自分のことを相手に対して伝える時の偽りであり、誤った情報を流すのか、自らを高く見せかけようとするものです。特に「偽善」は人と同時に神を欺くことから背信、不敬神の意味もあるのです。他方「ねたみと悪口」は、相手との関係であり、ねたみは相手を自分よりも高く評価することにより、その高い評価が自分にないことから来る感情です。これは主がお与え下さった恵みの賜物・個性を否定する行為です。「悪口」は、相手を低く評価することから生じる言葉です。
 つまり、自分に対しても相手に対しても、ありのままの評価をすべきであり、誤った評価をしてはならないのです。言い換えますと、私たちの個性とは、主なる神さまがお与え下さった様々な恵み・賜物から成り立っているのであり、私たちはそれらの賜物を適切に用い、主の御業のために働くことが求められているのです。つまり等身大の自分をしる必要があり、私たちは主の御前に立ち、自分自身の姿を確認しなければならないのです。このことは同時に、私たちは自分自身の弱さ、足らなさ、罪の姿が露わにされるのです。それが主の御前に遜りとなり、人の前での謙虚さへとなるのです。

U.御言葉を素直に聞け!
 次に2節でペトロは次のように語ります。「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」。主イエスも、説教している最中、御自身に近づいてきた子どもたちを叱った弟子たちに対して「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(マルコ10:14-15)と語られました。では、どの様な子どもとなるべきなのでしょうか。それは無心に主に仕えることであって、無知であってはならないのです。無知は、サタンの誘惑に陥ることとなるからです。「兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください」(Tコリ14:20)。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。」(マタイ10:16)
「主により頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身につけなさい」(エフェソ6:10)。
 つまり、神の知恵を得ようとする上では、いつまでも初心者であってはならないのです。「わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。」(Tコリント3:2、参照:ヘブライ5:12)。固い食物、つまり御言葉の深い理解が出来るように、御言葉に聞き続けることが求められています。それが、主の日毎の礼拝に留まることなく、教会の諸集会における聖書や教理の学び、さらには家庭礼拝や個人デボーションへと促しているのです。
 これは頭でっかちになれと語っているのではなく、聖書の知識を学ぶことにより、それが同時に身に付き、信仰生活と直結することが必要です。学びのための学びとなってはならず、そうした聖書知識が信仰生活に密着したものとならなければいけないのです。霊の乳である御言葉を蓄えることにより、主の真理を知り、この世にある罪や悪に対して戦うことが出来るような、神の武具を身につける必要があるのです(詩編119:130)。
 つまり、乳飲み子のようになるとは、主が語られる御言葉を、霊的な食べ物として、無条件に受け入れ、御言葉の養いを受け続けなさいと言うことです(エレミヤ15:16)。

                                     (2008.3.9)
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