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【礼拝説教】  「神のもとに集う」  辻 幸宏牧師

ペトロの手紙一2章3〜5節

  3 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。4 この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。5 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。




 受難週に入りましたが、引き続き、ペトロ書の御言葉から聞いてまいります。

T.神のもとに集う者
 ペトロは1章で、キリストを信じるあなた方はすでに朽ちない者とされているのであり、地上の生涯にあって朽ちる者のようにではなく、永遠の生命をお与え下さった主なる神さまを畏れて、生活することを求めていました。そのために朽ちない神の御言葉に聞き続け、新たに生まれなければならないのです。具体的な生活として「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」と語られていたのです(2:1-2)。
 そしてペトロは「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました」と語ります。「信じる」、「知る」ことは思想・知恵の概念ですが、「味わう」は味覚概念であり、私たちは体全体で神の恵みを体験しているのです。「恵み深い味わい」つまり非常に美味しい料理を頂き、いつまでも余韻を楽しんでいるような快い味わいではないでしょうか。
 そして「この主のもとに来なさい」とペトロは語ります(4)。美味しい料理を味わわせ、永遠に続く本当の喜びに導いて下さるのが、無条件に招いて下さっているのです。

U.礎のキリスト
 旧約の時代、主はイスラエルの民を救うために彼らを召し出して下さいました。そして主は彼らに主を礼拝するための幕屋を建設することが求められました。幕屋の中には聖所と至聖所が設けられ、至聖所の中に、神と民との契約の箱が置かれ、神の臨在の場所とされたのです。しかし、主はイスラエルの民が主を礼拝するために、至聖所や聖所に立ち入ることは禁じられたのです。聖所には祭司が生け贄の度に入ることが許されましたが、至聖所には大祭司が一年に一度だけしか入ることは許されなかったのです。それは、イスラエルの民が罪人であり、聖・義・真実であられる主は受け入れられないからです。
 しかし、その主が「来なさい」とお語り下さいます。それは、私たちがイスラエルの民に比べて立派だからでもなければ、私たちの善き行いが受け入れられたのでもありません。主御自身が私たちの罪を赦して下さったからです。キリストの十字架の故です。つまり、私たちの側が神に近づくことが出来るようになったのではなく、主なる神さまが御子をこの世にお遣わし下さることにより、私たちが主に近づくことが可能となったのです。
 キリストは、私たちを神と和解させ、救いに導いて下さる方です。そのため人々から受け入れられ歓迎されるべきです。しかし神の民として選ばれていたはずのユダヤ人は、キリストを約束の救い主と認めず拒絶したのです。それは、ユダヤ人が自分勝手なメシア像を作り上げ、そこから離れたことを行われたキリストを受け入れることが出来なかったからです。そのため彼らは、キリストを神を冒涜するものとして、十字架に架けたのです。
 しかしキリストの十字架は、私たちの救いにとって必要だったのです。「神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです」(4)。ここでペトロは家を建てることに例えます。キリストは神の宮を形成するための「生きた石・礎」なのです(参照イザヤ28:16)。
 いま隣家が建てられていますが、家を造るにあたり盛り土が行われます。しかしただ土を盛って固められているのではなく、コンクリートをしっかりと打ち付けてあるのです。こうして沼地であった柔らかな地盤であっても沈むことがなく家が建てられるのです。
 キリストは、神の国におけるこの地盤です。石を組み合わされ土台を作り上げられる時の要石なのです。ユダヤ人はそれを「いらない」と排除したのですが、実はキリストを排除することにより彼らの描いた神の国は崩壊したのです(マタイ21:33-42、詩編118:22,23)。
 しかしキリストという礎があるからこそ、神の国は生命を宿らせ、そこに集められた者たちが恵み深い味わいを得ることが出来るようになったのです。

V.霊的な家を造り上げる
 そしてペトロは5節で「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。」と語ります。キリストが礎となった神の宮に入るからこそ、私たちキリスト者は、主の恵みに与ることが出来るのです。私たちも神の家の一部を形成するのです。それぞれがキリストに繋がっているのです(参照:ヨハネ15:4)。キリストに繋がり、それぞれが異なった賜物が与えられた一つの器官として、神の宮を形成するのです。必要のない者はありません。キリストの体として御言葉に聞き続けることにより、霊的な成長が与えられ、朽ちない者とされていくのです。
 「そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」。先程、旧約の時代、幕屋に入ることが許されているのは祭司だけであることを語りました。しかし、キリストが十字架にお架かりになられ、死を遂げられた瞬間、「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」たのです(マタイ27:51)。神と民との間にあった罪という壁が、キリストの贖いにより取り去られたのです。だからこそ、キリスト者は罪が赦され、神の救いに入れられるものとなったのです。そして、主は私たちが神のもとに来ることを妨げられることは無くなったのです。そして私たちの全てが祭司として主の御前に集うことが出来るものとされているのです(万人祭司)。だからこそ、私たちは主の御前に集められ、主を礼拝を献げることが許されているのです。
 祭司としての努め、それは主のもとに集い礼拝を献げるだけではありません。生け贄を献げることが求められます。もちろん大祭司であるキリストが十字架の生け贄をお献げ下さり、その生け贄によって私たちは朽ちない生命が与えられたのです。だからこそ、私たちは主がお与え下さる御言葉に聞き続けること、主の御業に倣い、朽ちない生命が与えられた神の民として相応しく生きることが求められているのです。
 この週、キリストの十字架を覚える一週間です。キリストの十字架により、私たちの礎が築かれているのです。だからこそ、私たちは主の御許に集うことが許され、永遠に続く神の国における生命の喜びに満たされ、主の恵み深さを味わいつつ、日々の生活を送ることが許されているのです。

                                     (2008.3.16)
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