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【礼拝説教】  「暗闇から光の中へ」  辻 幸宏牧師

ペトロの手紙一2章9〜10節

  9 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。10 あなたがたは、
  「かつては神の民ではなかったが、
   今は神の民であり、
   憐れみを受けなかったが、
   今は憐れみを受けている」
のです。



T.主なる神さまの一方的な恵み
 現代に生きる者にとって、生きることは暗闇ではなくなったかの如くです。快適な生活は、聖書の時代とは比べものにはなりません。しかし、本当に現在の生活から暗闇は無くなったのでしょうか? 決してそんなことはありません。社会の歪みから来る様々な苦しみ、労苦、病気、そして誰一人として死を避けて通ることはできません。しかし、今日、他人が死んでいく姿を目にすることが非常に減っています。そのため、人は自らの死と真に相対することなく、日々の生活を送っているのです。他人を傷付け、他人を陥れるような事件が増えているのは、ここには他人の痛みを実感することが出来なくなっている人々がいるからであり、まさしく自らの死の恐怖がないことの裏付けではないでしょうか。
 しかしこれは一時的なまやかしに過ぎません。人は誰しも、死を避けることは出来ません。罪の故の肉体の死と永遠の死がある以上、人は、今なお暗闇の中を歩んでいるのです。
 しかし聖書は、神から捨てられ永遠の死に向かって歩んでいた者が、罪が赦され神の子として永遠の生命を持つ者とされたことを語ります(9-10、ホセア2:1-3)。ここで引用されているホセア書において、ホセアは主によって召され預言者とされますが、主は彼に淫行の女をめとるように命じます。そして生まれ来る子どもたちの名を「イズレエル(神の裁きを象徴する名:列上21章、列下9章)」、「ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)」、「ロ・アンミ(わが民でない者)」と名付けるように命じます。これは、主が神の民イスラエルに対して、自らの現実の姿を直視するように命じられているのです。人の罪の姿です。
 こうした罪深い人間に対して、主は、「ロ・アンミ」ではなく「生ける神の子ら」であり「アンミ(わが民)」である、「ロ・ルハマ」ではなく「ルハマ(憐れまれる者)」であると宣言して下さるのです。ここに、主なる神さまの一方的な恵みが示されているのです。

U.光の中に生きる者
 ペトロは、光の中に招き入れられたキリスト者がどの様な存在であるのかを、4つの言葉を用いて語ります(9)。
 @「選ばれた民」(参照:イザヤ43:20)。ホセア書で理解できるように、神の御前に絶縁状態に置かれていたイスラエルが、主の一方的な恵みにより、憐れまれ、神の民とされたのです。この神の一方的な選びが、キリストの十字架により、イスラエル・異邦人の区別なく、すべてのキリスト者の上に与えられており、この救いの根拠は、神の一方的な選び以外、なにものでもないのです。
 またここで「民」と訳されている言葉は「種類」であり「種族」(口語訳・新改訳)です。つまり「選ばれた種族」であり、神との一対一の関係ではなく、クリスチャンは一つの種族、つまり教会論的に捉える必要があります。そうすれば、「私は神さまを信じている」だけでは済まされず、神のお招きになる礼拝に集い、兄弟姉妹との交わりが求められるのです。
 A「王の系統を引く祭司」(参照:2:5、出エジ19:6)。キリスト者は皆、神さまを礼拝し、神さまに仕える祭司とされています。万人祭司です。祭司は、神に仕え、神に犠牲を献げ、神を礼拝し、また民のために執り成しの祈りを献げます。そのため、キリスト者、は、神からの祭司とさせられたものとして、自分自身の全生活を供え物として神を礼拝し、神に仕えるのです。教会に集うキリスト者が、祭司として神に仕えることにより、神の栄光が誉め称えられるのであり、このことこそ主の創造の目的です(黙示録5:9-10)。
 B「聖なる国民」(参照:出エジ19:6)。罪深い私たちを、主はわが民として下さったばかりか、キリストによって私たちの罪を憐れみ、罪を償って下さいました。こうして、私たちは、私たち自身の善き行いではなく、主なる神さまからの一方的な恵みと贖いにより、義と認められ、聖なる者とされたのです。今なお罪人である私たちは、キリストの十字架によって、既に義と認められ、聖なる国民とされ、永遠の生命に与るものとされています。
 C「神のものとなった民」こうして主なる神さまによって召され、キリスト者とされた私たちは、神の民、神の子とされているです。神の子としての特権として、永遠の生命と祝福が与えられ、神の御許にいつもあることにより、主からの加護と祝福が与えられています(参照:ウェストミンスター大教理問74)。
 キリスト者は、この様な大きな特権が主から与えられ、恵みに満たされているのです。

V.主を証しする者へ
 では、これ程の恵みと特権が与えられた私たちは、何もしないでよいのでしょうか? 決してそうではありません。「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」(9)。主を証しする者とされるのです。光は闇を照らします(マタイ5:15-16)。キリスト者は、地の塩、世の光であるべきであり、光は人々を照らすために用いる必要があります。
 私たち自身が、キリストの十字架による救いにある光の中を歩んでおれば、朧気の中を歩んでおり世を謳歌している人々に対しても、まぶしく、真の光へと招く力があるのです。
 そのために、私たちは、まず私たち自身が救われ、主からの特権に入れられている信仰を確かにし、揺らぐことなく主に仕え、主を礼拝し続けることが求められています。

                                     (2008.3.30)
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