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【礼拝説教】  「主人への敬い」  辻 幸宏牧師

ペトロの手紙一2章18〜21節

  18 召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。19 不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。20 罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。21 あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。




 ペトロは、主によって救われ、神の国に国籍を持つ者として、この世においては、立派に生活するように語ってきました。そして13節では「すべての人間の立てた制度に従いなさい」と語ります。第一に為政者に、そして今日の所では主人に従うように語ります。

T.召し使い
 「召し使いたち」(18)とは、奴隷ほどの身分ではないものの、当時、家庭に仕えていた雇い人のような人たちのことを指しています。当時、こうした多くの奴隷や召使いがいましたが、その中からキリスト者へと回心していた人たちも多くありました。そして彼らは、自らの立場を踏まえつつ、今日与えられたペトロの言葉を受け取ったのです。
 ここで確認しなければならないことは、ペトロは直接奴隷制度に関して、否定していないと言うことです。主イエスも同様です。そのため、長い間、教会において、奴隷制度が否定されることなく、受け入れられてきました。アメリカにおいては奴隷制度や人種差別が肯定されてきた歴史があります。南アフリカのアパルトヘイトはつい10年位前まで残されてきていたのです。これらの差別に教会の果たした罪は大きいです。しかし主イエスの言葉と聖書全体は、隣人への愛を語り、社会的弱者、身分の低い者も同じように愛することを語り、究極的に奴隷制度や身分も越えた人々への愛が語られていきます。従って、現在では、聖書が奴隷制度を支持しているとの解釈することは決して受け入れられません。

U.無慈悲な主人に従え?
 さて話しが大きく逸れました。ペトロは、現在における使用人・労働者もまた、雇用主・上司に従うように求めているのです。特に注目すべき事は、「寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさいではない」です。「無慈悲な」は、直訳すれば「曲がっている」で、「気むずかしい・横暴な・情けなき者・情け知らずの・意地の悪い」と訳されています。人は主の御前に罪人であり、誰しも罪があります。それが自我であり、欲望、権力欲、支配欲です。キリスト者も罪赦された罪人です。つまり、私たちも「意地悪い」上司になり得るのであり、またこうした上司がいることも多々あるのです。ですから、そうした上司に仕える者にとっては、非常に労働条件の悪い職場と言えるでしょう。職業の自由があり、転職が簡単な現在では、こうした上司がおれば会社をすぐに辞め転職するか、あるいは別の部門に移ることが出来るように行動する人もいるでしょう。こうした行為は、当時も似たようなことがあったようです(テトスの手紙2:9〜10)。

V.横暴な主人であっても、仕えなさい!
 ではなぜ、ペトロはそのような横暴な主人であっても、心からおそれ敬うように語るのでしょうか? 主なる神さまが天地万物を創造し、全てを統治しておられるからです。主は、御子イエス・キリストをこの世にお送り下さり、キリストの十字架の御業により、私たちを罪の赦しと永遠の生命の祝福に満たして下さっています。それと同時に、全てを統治しておられる主は、ここで語られているような主人をも立てられているのです。つまり、主の統治と予定です。そしてこうした苦痛をも、主が私たちにお与えになられているのです(19)。私たちはどうしても自分を中心に考えてしまいます。しかし主のご計画は、神の国の完成であり、完成された神の国に神の民であるキリスト者を導くことです。罪深い、どうしようもない者を、キリストの十字架により罪を赦し、永遠の生命をお与え下さるのです。そのため私たちは神の子に相応しい者となるために、聖化することが求められます。私たちは自分の力でこうしたものを手に入れることは出来ません。主がお与えになられた試練を耐え忍ぶことにより、主によって聖化されていくのです(参照:1:6-7)。また、主は御自身が与えられた試練に耐えられ、逃れる道をも備えて下さいます(Tコリ10:13)。
 またキリストの十字架の苦しみは、私たちの模範として示されています(21)。キリスト者はキリストに倣うことが求められます。それは律法に従って罪から離れ、主の真理に従って正しく生きること、主を愛するように人々を愛する生活です。それは同時に、キリストが十字架を担われたように、私たちに与えられた十字架を担うことが求められているのです。私たちの罪はキリストが全てを担って下さいました。しかし私たちが自らの罪を覚え・顧み、悔い改めつつ、十字架を背負って生きることが求められるのです。そうすることにより、謙虚・謙遜が与えられ、真の救いが与えられた喜びに生きものとされるのです。

                                     (2008.4.27)
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