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【礼拝説教】  「キリストによる義」  辻 幸宏牧師

ペトロの手紙一2章21〜25節

  21 あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。
22 「この方は、罪を犯したことがなく、
   その口には偽りがなかった。」
23 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。24 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。25 あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。



T.御子イエス・キリストを顧みよ
 無慈悲な主人に対しても従うことがキリスト者に求められています(18-21)。その理由の一つに挙げたことが、主なる神さまの天地万物の統治とご計画です。主のご計画は、義しく、主なる神さまによって召され救いに導かれている私たちの救い・祝福に向けられています。その中、主が私たちの信仰を養う時、この様な試練をも与えられるのであり、神の子とされている私たちは、その試練を乗り越えることもできるものとされているのです。
 この時、私たちはイエス・キリストをも顧みる必要があります。主イエスは、神の御子であり、真の神そのものです(神性)。そのため、キリストは、病人を癒されたり、死人を甦らせたりもなさる力を有しておられます。湖の上を歩くことすらも可能なお方です。この真の神であられるキリストが人として遜られたのです(フィリピ2:6〜7)。そうした中、生涯にわたり、特に十字架の苦難において、苦しみに耐えられたのです。人間の姿で現れ、遜り、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした(フィリピ2:7〜8)。
 愛弟子であるイスカリオテのユダに裏切られて逮捕され、朝に至る続けざまの裁判においてサンヘドリンの議員たち、ヘロデ王、ポンティオ・ピラトから尋問を受け、侮辱され、あざけられ、鞭を打たれます(マタイ27:27-31)。このように、罪のないお方が罪に定められたのです。鞭で体を叩かれ、瀕死の状態で、キリストは十字架を担いでゴルゴタの山に登っていかれます。これは、キリストが父なる神さまのご計画に従わたからです。それは主Jの祈りに表れています。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタイ26:39)。キリストは、全てを正しくお裁きになる方、つまり父なる神さまに全ての裁きを委ねられ、御自身に果たされた働きを全うされたのです。隠されている罪が露わにならないことはありません。たとえ一時、罪が隠されていたとしても、主は全てをご存じであられ、最後の審判において、全てを裁いて下さいます。キリストが、どのような苦しみにあってもそれに耐え忍ばれたのは、父なる神さまの正義と審判に委ねることが出来たからです。

U.キリストの十字架
 しかし、主は私たちに苦しみに耐える事ばかりを求めておられるお方ではありません。キリストは、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。キリストは祭司として御自身の体を祭壇に献げられることにより、私たちの罪の刑罰としての呪いを引き受けて下さったのです。キリストは私たちの罪を贖い、私たちの罪の償って下さったのです。だからこそ、私たちは、神の裁きにおびえる必要は無くなったのです。
 第二にキリストの十字架により、わたしたちが、義によって生きるようになるためです。つまりキリストは、私たちの負債である罪を取り除いて下さるばかりか、神の子に相応しいものとして、「義」を獲得して下さったのです。キリストの十字架を信じる者は、皆がキリストにより義とされ、神の国に入ることが許されているのです。「信じなければならない」ではなく、主が私たちの罪を取り除き、永遠の生命の宿る神の国に導いて下さっているからこそ、私たちは安心することが出来、感謝と喜びが信仰に表れてくるのです。
 さらにキリストが十字架にお架かられたことにより私たちは監督者である主の所に戻ってくることが出来たのです。私たちは独りではありません。主が一緒にいて下さいます。
 最近、生きる希望を失った人たちの自殺者が増えています。未来に希望がもてず、一人ぼっちで、どこに向かっているのか分からないからです。しかしキリストは、さまよっていた私たちをお集め下さり、御言葉を通して魂の養い、苦難の中にあっても生きる希望をお与え下さいます。祈りを聞き届けて下さいます(参照:詩編23編)。

V.真の喜びに包まれる信仰生活
 私たちは、この様に私たちを救いに導いて下さったキリストの僕・弟子とされています。主なる神さまとの霊の交わり、加護、永遠の生命の約束に与っているからこそ、無慈悲な主人であって、主がお立て下さった主人に従うことができるのです。この様なキリスト者の信仰が、どの様な状況の中にあっても、迫害に耐え、殉教の道すらも受け入れるのです。
 キリスト教の2000年の歴史は、同時に迫害と殉教の歴史です。ペトロを初めとする全ての使徒たちは信仰を貫き、殉教の道を歩みました。ローマ帝国においてキリスト教が国教化されるまで、多くの信徒たちが信仰の故に殉教を遂げていきました。日本でも、キリシタンがいました。第二次大戦中には、朱基徹牧師が死に至るまで信仰を貫かれました。
 彼らが、迫害・虐げを受け、死に至るまで従順であったのは、キリストの御業により、罪が赦され、神の国の永遠の生命が与えられ、神の子として神さまの守りがあるからです。

                                     (2008.5.4)
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