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【礼拝説教】  「信仰と家庭」  辻 幸宏牧師

ペトロの手紙一3章1〜7節

  1 同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです:2 神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。3 あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。4 むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。5 その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。6 たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなたがたも、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。
  7 同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません。



T.異教徒の間に生きるキリスト者
 今日からペトロの手紙3章に入りますが、話しの繋がりから考えれば、2:11から続いている話しです。ペトロは、「異教徒の間で立派に生活しなさい」(2:12)と語り、その具体的な問題として、@すべて人間の立てた制度に従うこと、A召し使いたちが心からおそれ敬って主人に従うことを語り、B妻たちよ、自分の夫に従いなさいと語ります(3:1)。
 今日の箇所では、主に妻に対して語られることから、「聖書は古い・男尊女卑である」と言われることもあります。しかしそうではありません。聖書の立場を確認する必要があります。@創造者・贖罪者である主なる神さまの御前に立つ私たちの視点です。つまり、すべての人間は、主の被造物であり、どの様な立場の人間であっても、主が遣わされた者です。A主は全ての人間を等しく愛しておられ、救われること、命の恵みに共に受け継ぐことを求めておられることです。当時は家庭にあって妻は夫に隷属するものでした。その中、聖書は妻も命の恵みを共に受け継ぐ者と夫に等しい者であることを語ります(3:7)。
 しかし人間には罪・欲望があり、それ故に支配する側と支配される側が生じています。主が天地創造された時、人の間に支配と従属の関係はありませんでした。また、神の国が完成した時には、こうした支配者・被支配者の関係も無くなるのです。そうした中、今生きる私たちは、差別・格差の社会に生きており、主は私たちがこの社会でどのようにキリスト者として生きていくべきかを、御言葉を通してお語り下さっているのです。

U.夫に従う妻
 ペトロは社会的弱者である妻に対して詳細に語り始めます。当時、妻だけが信仰を持っている家庭がかなりあったようです。主は、妻たちにキリスト者として夫に従うことを求めます。これは現状追認ではありません。聖書が奴隷制度を肯定せず、むしろ神の求めではないことと同様、聖書は男性が女性を支配することを認めているのではありません。創世記2章で最初に人が作られ、続けて女が与えられます。妻は夫の助け手であり、主から本来与えられた働きに違いがあり、ここに上下関係は存在しないのです(参照:創2:20-22)。
 その上でペトロは「自分の夫に従いなさい」と語ります。キリスト者が、主の御言葉に聞き従う者として、主が立てられた制度に従うのです。これは盲目的服従ではなく、互いにそれぞれの働きの違いを理解し尊重しつつ、妻は夫の助け手として夫に従うのです。

V.妻から夫への伝道
 続けてペトロは、未信者の夫に対しても、妻の信仰から来る純真な生活により信仰に導かれるようになることを語ります。キリスト者である妻は、第一に主の御言葉に聞き従うのであり、そのことが地の塩・世の光としてキリストを証しするのです。この行いは、たとえ言葉がなくともキリストを証し、御言葉が伴うことにより力あるものとなります。
 しかしここには忍耐が必要です。10年、20年、あるいは一生かかることもありますが、主は信仰者の祈りを受け入れて下さいます。ですから私たちは、熱心さよりも、主に委ね祈り続ける事です。主の御業を、私たちは自分の手柄にしてはならないのです。このことは、私たちの伝道の全てにおいて、言えることです。

W.キリスト者としての生き方
 続けてペトロは、外面的に着飾ることに言及します(3〜4)。このことも今や女性に限らず、男性も耳を傾けるべきことです。主が私たちに求めておられることは、「今どの様に生きるか」ではなく、キリスト者としてどこにむかって生きているのか、異教徒の間にあってどの様にキリスト者として生きていくべきかが、問われているのです。ファッションは流行廃れが激しく、ブランド・貴金属も最終的には廃れます。しかし主はキリスト者に、神の御国における永遠の生命をお与え下さっています(1:4)。ここで主は内面的な人柄を求められます。土の器である私たちが内面をそのまま出すと、人に対する誹謗・中傷が出てきます。従って私たちは、土の器である内面に、朽ちず、汚れず、しぼまない財産としての御言葉を蓄えることが必要なのです。私たちの救い主イエス・キリストは、十字架の御業を成し遂げ、すでに私たちに罪の赦しと永遠の生命を獲得して下さいました。しかし、日々の生活に追われる中、私たちはこの真実の喜びを忘れてしまいます。そうすると外面的なことを求め、自我が出てくるのです。だからこそ私たちは一日一回、主の御前に静まり、主の御言葉に聞き、御言葉を蓄えることが求められているのです。そうすることにより、土の器に、主の御言葉が蓄えられ、それが日々の内面的な人柄に表れてくるのであり、そのことが強いては家庭において、社会において、キリストを証しすることとなるのです。

                                     (2008.5.11)
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