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【礼拝説教】  「神の御心に従う」  辻 幸宏牧師

ペトロの手紙一4章1〜6節

  1 キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。2 それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。3 かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。4 あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。5 彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。6 死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。



T.キリストの御業による救いを忘れるな!
 ペトロは3:8以降、キリスト者の苦難について語ってきました。私たちキリスト者は、今なお神に背いたサタンの支配に服しているこの世で生活しています。そして様々な外的な苦しみ、目に見えない精神的な苦しみをこの世から受け続けます。しかし主は、キリストを信じ、キリストにあって神さまの御前に信仰的良心に従って生きるよう求められます。
 しかしキリスト者が苦難に耐えなければならないのは、苦難に耐え、良き生活を送ることによる結果として、主による救いを獲得するためではありません。キリスト教は決して禁欲主義ではなく、殉教を賞賛しているわけでもありません。
 私たちキリスト者は、すでにキリストの御業によって罪赦され救われているのです。苦難に耐え良き生活を行う根拠は、キリストの十字架にあるのです。すでにキリストが私たちに代わって十字架における罪の贖いを成し遂げて下さったからです(3:18)。
 ペトロは改めて「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」(4:1)と語ります。なぜ苦しんでまで信仰を貫くべきなのか?信仰による苦難の故に信仰から離れる人もいます。しかしキリストがなぜ苦しみ、十字架に架けられ、死を遂げられたかを私たちは忘れてはなりません。キリストは十字架に死に、主の御前に生け贄として献げられたのです。主なる神さまは、ひとり子を死に引き渡すほどに、救いに与る私たちのことを愛していて下さっているのです。今も、主なる神さまは、聖霊をとおして私たちと共にいて下さいます。キリストの十字架の御業の故に、私たちの罪は償われたのです。そしてキリストが復活を遂げられることにより、死・サタンに打ち勝たれ、勝利をおさめて下さいました。キリストの勝利に与る者は、神の国における祝福に富んだ、永遠の生命が約束されているのです。

U.神の国のリアリティ
 しかし私たち人間は欲望に満ちており、他人のことよりも自分自身のことを考えます。人の痛み・苦しみが理解できません。そして自分自身にもたらされる苦しみを避けます。3節では、性的な乱れ・酒・偶像崇拝の3種類の罪を語りますが、これらは代表的な罪に過ぎず、あらゆる罪が記されるべきです。隣人の痛みを顧みることなく行われる殺し、暴力、盗み、姦淫、貪り、偽証といった行為も忘れてはなりません。主の御前に私たちが立つ時、行い・言葉・心の中で十戒に記された律法から少しでも離れることはすべて罪です。
 そしてペトロは「かつてあなたがたは、これらのことにふけっていたが、もうそれで十分です」と語ります。皮肉を込めた語り方です。キリストに繋がれ改心した今も、罪がなくなったのではありません。否。繰り返し私たちも罪を犯します。ペトロとしては、「もうこれ以上、罪の深みにはまらないように」との思いで、語っているのです。
 罪があろうとも自己を満足させる生活は楽しいです。しかし主の御前に罪と言われることを繰り返して私たちに何が残るのでしょうか? 生活を破壊し、隣人を悲しめ、苦しめるだけです。そればかりか、罪の刑罰は死です。「自分の人生だから、好き勝手する」と言われる方もいますが、肉体の死によって全てが終わるわけではありません。肉体は死を遂げても霊魂は生き続け、主の最後の審判により永遠の裁き・苦しみに入れられます。
 主を信じ、キリストの十字架に繋がると、この永遠の死の苦しみから解放され、神の子として、神の国における永遠の祝福に満たされます。主はこうした生き方をキリスト者に望まれており、神の御心です。神の被造物である私たち人間は、神の御心に従って生きる時にこそ、真の幸福が約束されています。私たちは、神の永遠の祝福の希望に満たされなければ、この世的な罪から離れて、神の御言葉に従う良き生活を行うことなど出来ません。

V.世との対峙が必要である!
 キリスト者が、この世の罪から離れ、神の御言葉に従った歩みを始めた時、人々はそしります(4:4)。キリスト者として、私たちが体験していることです。主の日に主がお招き下さる礼拝に出席することも然りです。仏式の葬儀に参列が求められる時、焼香をしないことも然りです。こうした信仰上の一つ一つが信仰の戦いとなります。特に日本人は、周囲に合わせることが求められます。キリスト者として、周囲の人たちと異なることを行えば、目立ち、それ故に裏口を叩かれたり、色眼鏡で見られたり、そしりの原因となります。そしてそれが発展していくと、いじめ、迫害という暴力に訴えることも生じてくるのです。
 信仰から生じるこの世の人々との対立から、私たちは避けたり、逃げてはなりません。私たちはすでにキリストの苦しみによって、罪の刑罰から既に解放させられています。世にある束縛から自由にされています。私たちはこの後、聖餐式に与ります。救いのリアリティーをこの聖餐式によって覚えていただきたいのです。黙示録(7章等)で語られている神の国における聖徒・キリスト者の喜びを覚えていただきたいのです。神の国に罪も苦しみもありません。神の国においては、罪・サタンはすでに滅ぼされ、キリストが勝利を治められています。そして神の祝福の下、永遠の喜びに満ち溢れています。主が私たちにこれらの祝福をお与え下さっているのに、どうして永遠の滅びと苦しみの道を歩もうとしている人々と同じ道を歩むことが出来ますか。出来るわけがないのです。信仰の戦いを行い、肉において苦しむことは大変困難な歩みです。しかし私たちは、主がお与え下さろうとしている祝福を覚える時、困難な歩みを乗り越えて、信仰を全うすることが出来るのです。

                                     (2008.6.15)
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