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【礼拝説教】  「今、行うべきこと」  辻 幸宏牧師

ペトロの手紙一4章7〜11節

  7 万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。8 何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。9 不平を言わずにもてなし合いなさい。10 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。11 語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。



T.万物の終わり
 ペトロは、「万物の終わりが迫っています」(7)と語ります。ヨハネの黙示録22:20で主イエスは「然り、わたしはすぐに来る」と仰せになり、教会はこの主の御約束に対して「アーメン、主イエスよ、来てください」と答えます。主イエスが再臨され、最後の審判の後、新天新地が与えられ、教会が聖められ、主イエス・キリストの花嫁として、永遠の全き祝福に向かい入れられる日を、私たちは待ち望んでいます。苦しみの中にあるキリスト者に対して、忍耐をもって耐え忍ぶように語るのは、この希望の故です。
 しかしこの時からすでに2000年経ちました。いつこの日が来るのか?遅いではないかと言われます。しかし私たちの人生は、せいぜい100年です。人の物差しで、神さまの御業を計ってはなりません。主なる神さまは永遠のお方です。「一日は千年のようで、千年は一日のようです」(Uペトロ3:8)。主なる神さまは、空間的には無限、時間的には永遠、そして不変の霊です。神さまの恵み豊かな御業を私たちの次元に閉じこめてはなりません。その日は、定められており、近づいていることは確かです。私たちにはその日が示されていないのです(マタイ24:36,42)。私たちは、主の御言葉を信じて、その日の備えることが求められています。

U.主に祈りなさい
 ではどのような備えを行うのか? @私たちを救いに導く主なる神さまに全面的に信頼し委ねて祈ることと、A隣人を愛して助け合うことです。
 第一に祈ることです。そのためには、主の御前に立つ自分自身の存在を知るべきです。科学技術が発展し、インターネット、携帯、テレビ・・、人間は快適に生きることが出来、人は何でも適うように思っています。しかしそれは上辺だけであり、ほとんどの人が中身を知らないのです。そのため故障しても、自分では修理すら出来ません。知識を蓄えているようであっても、世界のごく一部に過ぎないのです。ちっぽけな人間に過ぎないことを知るべきです。その一方、世界各国、日本の各地で発生している自然災害に、主の御力を見るべきです。自然を通して働かれる神さまの御力を忘れた人間に対する警告の言葉です。
 そのために主に対する全面的な信頼をもって祈ることが求められられています。心と身体の両面において主に従う必要があります。思慮深くとは、「正しい感覚を保って・自己制御して」と言った意味を含む言葉です。つまり神さまに祈り求める時に、ただ熱心に信じて祈れば良いのではなく、自分の置かれた場所・立場・状況を冷静に判断し、何が求められ、何を行うべきかを客観的に判断しつつ、主に祈り求めるのです。感情的な祈りは、主の求めておられることではありません。身を慎むことにおいては、自分の願いではなく、主の求めておられることを冷静に聞く、謙遜さが求められています。

V.互いに愛し合う
 一方で、主は心を込めて愛し合うことを求めます。人は、迫害あるいは苦しみの中にある時、余裕がなくなり、主を忘れ、自分のことで精一杯になります。そして小さなことでも他人に対して不平・不満を語り、仲違いしたりします。しかし祈りは、まさに余裕のない・焦りの中生活する私たちに、心のゆとりをもたらします。そして主の御前に祈り求める時、同時に周囲にいる他人のことをも配慮し、見渡すことが出来るようになるのです。
 続けてペトロは「愛は多くの罪を覆うからです」と語ります。心に少しでも余裕があれば、少々の事でも、罪を覆い尽くし、赦すことが出来るのです。確かに人は、罪の故に傷つけられること、憤りたくなり、心が定まらなくなります。しかし私たちはすでにキリストの十字架による罪の赦しが与えられた者として、人の罪をも赦すことが求められています。また最終的には他人の罪を、キリストによる最後の裁判に委ねるべきことです(参照:仲間を赦さない家来のたとえ マタイ18:23〜35)。

W.人に仕えよ!
 そして他人の罪を赦すことが出来る者は、人をもてなすことが出来ます。それも「不平を言わずに」です。私たちは不平不満・つぶやき・愚痴を、すぐに口に出してしまうのですが、それらは究極的には、神に対する不平・不満であり、主によって与えられている救いに与る者としてはふさわしい行為です。
 そして、どのようなもてなしかと言えば、主なる神さまによって与えられた霊的賜物、つまり主によって与えられた様々な働きをとおして行うのです(10)。それは、自らの特技を人々に見せびらかせるためではありません。自己満足のためでもありません。主が賜物をそれぞれ異なった賜物をお与え下さっているのであり、互いにそれらを持ち寄り、助け合うことにより、教会を建て上げ、秩序を保っていくためです(参照:Tコリント12章)。それぞれが異なった働きを行うからこそ、一つのキリストの体としての働きを全うすることが出来るのです。不必要な器官は何一つないわけであり、互いに協力し合い、秩序正しく働くことにより、キリストの体を形成するのです。キリストの体を形成していくことこそ、今、私たちに求められている事です。

                                     (2008.6.22)
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