【礼拝説教】  「パウロの希望」  辻 幸宏牧師



  ローマ信徒への手紙15章22〜29節(新共同訳聖書)

15:22 こういうわけで、あなたがたのところに何度も行こうと思いながら、妨げられてきました。
15:23 しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、何年も前からあなたがたのところに行きたいと
    切望していたので、
15:24 イスパニアに行くとき、訪ねたいと思います。途中であなたがたに会い、まず、しばらくの間でも、あな
    たがたと共にいる喜びを味わってから、イスパニアへ向けて送り出してもらいたいのです。
15:25 しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。
15:26 マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに
    喜んで同意したからです。
15:27 彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものに
    あずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。
15:28 それで、わたしはこのことを済ませてから、つまり、募金の成果を確実に手渡した後、あなたがたのと
    ころを経てイスパニアに行きます。
15:29 そのときには、キリストの祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところに行くことになると思ってい
    ます。


 パウロは復活の主イエスに出会い、使徒として異邦人宣教のために召されました。そしてその時以来、異邦人を福音に導くために宣教活動を続けます。この手紙は、パウロの第3回宣教旅行中コリント(AD57or58)にて記したと考えられていますが、パウロは宣教旅行中、何度も世界の中心地ローマに行きたいとの希望を持っていました(22)。しかしそれは自分の希望だけが実現されれば良いというものではなく、神様の御心に適う形で訪れることを望んでいたのです(1:9-10)。つまり人間としての欲望や野心を満たすためではなく、主の御心、主のご計画が成し遂げられることこそが第一であり、その主の御心に合致する形でローマに行きたいと願っていたのです。ここにパウロのキリスト者として、神様の御心に従い、主に自らの活動の全てを委ねる姿が示されています。
 主がパウロに与えられたギリシャ地方における宣教を終了し、念願でありましたローマに行くことが出来ることの喜びを率直に語ります(23)。しかしパウロの願いはそれだけに留まりません。パウロは全異邦人に対する宣教です。ローマにはすでに組織だったキリスト教会があったからこそ、パウロとしては、ローマの宣教はローマ教会の信徒たちに委ねることが出来るとの判断が立ちます。だからこそまだ福音が語られていない地、当時地の果てイスパニア(スペイン)にまで宣教に行きたいとの願いが更に与えられていたのです。
 ところで、パウロには与えられた責任がありました。エルサレム教会に、献金を届けることです。当時、エルサレムを中心とするユダヤの教会は、飢饉が続いていたことと同時に、激しい迫害があり、その日の生活にも事欠く状況に追い込まれていたのです。従ってパウロはエルサレム教会のための募金を、各所で募っていたのです(ガラ2:10、1コリ16:1-4、Uコリ8:7、使徒24:17)。私たちの伝道所も、親教会であります加納教会から援助を受けています。いくら感謝してもしつくことはないでしょう。しかし施しは、ゆとりが出来たから、ゆとりの部分で行えばよいというものでもありません。ゆとりがなくとも、また援助を受けていたとしても、本当に必要を求めている人たちに援助が差し向けられる必要はあるのであり、そこにキリストの愛がしめされるのです。マケドニア州やアカイア州の人々は、喜んでエルサレム教会に献金を献げたのです。喜んで献金を献げるのは、真の救い、つまり復活のイエス・キリストによる罪の赦しと永遠の生命について、はっきりと示され、救われていることに対する主への感謝の気持ちの表れです。また私たちが「日用の糧を今日も与えたまえ」と主の祈りで祈ることが出来るのは、全てを主に委ねる信仰があるからこそです。主が養って下さり、必要は主がお与え下さる信仰があれば、自分に与えられたものの中から少し多いのではないかと思われるものを献げたとしても、主が必要を満たして下さり、足らない部分は主がお与え下さることも信じることが出来るのです。教会の霊性は、様々なバロメータによってはかることが出来るのですが、献金の額、それも一人当たりの献金額も、その要因の一つと言えるでしょう。
 さらにパウロは、マケドニア州とアカイア州の人々が献げた援助を、自らの手で、エルサレム教会に届けると語っています。これも重要な事です。施しを行うことは相互扶助ですが、キリストによる罪の赦しと永遠の生命に与る者同士の相互援助は、顔と顔とを合わせて交わることにより、施された献金の金額以上のキリストの愛の交わりが生じるのです。26節「貧しい人々を援助する」と訳されている言葉はコイノニアです。つまり交わりです。霊的なキリストによる交わりが、顔と顔と合わせることによりさらに豊かにされるのです。
 パウロが今滞在しているのはコリントでしょうが、そこから直接ローマに行き、そしてイスパニアに向かうことも出来たのですが、逆方向でありますエルサレムまで、はるばる出向き、施しを行ったのです。それは、そこにパウロ自身のキリストの愛が込められているのであり、同時にマケドニア州とアカイア州に立てられ、エルサレム教会のために施しを献げているキリスト者一人一人の愛が、込められているのです。こうした交わりこそ、キリストによって生かされている者同士の愛の交わりとなるのです。
 私たちはこの後、聖餐の礼典に招かれます。これは神の国におけるキリストと全キリスト者の霊的な交わり、晩餐の前味です。ここに集う人たちだけでなく、場所・教派・国・時代を超えたキリスト者との交わりを、聖餐式を通して確認して頂きたいと思います。
                                              (2004.8.1)



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