【礼拝説教】  「一緒に祈る」  辻 幸宏牧師



  ローマ信徒への手紙15章30〜33節(新共同訳聖書)

15:30 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛によってお願い
    します。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、
15:31 わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たち
    に歓迎されるように、
15:32 こうして、神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように。
15:33 平和の源である神があなたがた一同



 パウロは第三次宣教旅行が終わろうとしている今、すぐにでもローマ教会を訪問し、さらにイスパニア(スペイン)に宣教に出かけたい思っていました(22-24)。しかしパウロにはその前に果たさなければならない使命がありました。それは、エルサレム教会がひどい迫害下にあり苦しみを覚えていたため、パウロは、宣教している各教会に献金を呼びかけ、それぞれの地域で集められた献金を、エルサレム教会へ携えていくためでした。パウロは、その任を、キリストの愛の故に、自ら行うことを決断したのです。
 しかしパウロはその任務がどれほど困難なことであるかも理解していました(使徒20:22-24)。投獄と苦難を覚悟していたのです。それは、エルサレムでキリスト者に対する迫害がなされていたからであり、さらにそれがパウロだからです。パウロはユダヤ人からすれば裏切り者です。パウロは、以前サウロと呼ばれ、キリスト者を迫害し教会荒らしを行っていました。しかしダマスコで、目が閉ざされ、復活の主イエスに出会い、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」との呼びかけに、悔い改め、主への信仰を告白しました。まさに目から鱗が落ちサウロの目が開かれたのです(使徒9章)。だからこそユダヤ人にとってパウロは裏切り者であり、許すことは出来ないのです(使徒9:23-25,23:12-13)。
 だからこそパウロは、自らが宣教を行った各教会のため、エルサレム教会のために祈ると同時に、自らの身の安全のためにも祈っていたことでしょう。しかしパウロはさらに、自らのために祈るようにローマ教会の信徒に願います(30)。パウロは、個人の祈りだけではなく、教会・信仰共同体として祈るところに霊的な力が働くことを知っていたのです。
 共同体の祈りが必要なのは、主の祈りにおいても語られている通りで、「天におられる私の父よ」ではなく「天におられる我らの父よ」と祈ります。祈りは、人々の前で自分が立派な信仰者であることを訴えるために人前で長々すべきではなく、「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(マタイ6:6)と語られています。しかし同時に、「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:19-20)とも語られています。このことは、教会・信仰共同体の祈りこそが、霊的に主へ訴える力のあるあることを語っています。私たちが祈る時、そこには主に4つの要素があります。@主の栄光を称えること、A自らの罪を悔い改めること、B執り成しをすること、C必要を求めることです。つまり私たちが自らの必要を祈る時、同時に、そのことにより主の栄光が称えられ、主の御心に適うものであることを求めた祈りでなければならないのです。
 パウロが復活の主イエスに出会い回心したように、私たちも十字架のキリストによる罪の赦しを信じ、神様による救いが与えられた者です。しかし地上の生涯を歩む中、罪があり、祈りの中にも自らの欲望が出てきます。だからこそ教会での祈りが必要であり、その祈りが、個人的な感情に基づくものではなく、信仰者として、主の栄光を称えるための祈りでなければなりません。従って礼拝の中での教会の祈り、祈祷会での祈り、教会で牧師が祈り、家庭での祈りにおいて、執り成しの祈りが献げられることが非常に重要なのです。
 だからこそ教会は「祈りの家」とも呼ばれるわけで、祈祷会以外の時でも、皆さんがいつでも来て頂き祈って頂いて構いませんし、執り成しの希望を出して頂きたいのです。教会で祈ることにより、それが共同体の祈りとなります。だからこそ、私たちが大垣教会を形成していく時、教会に集ってい人たち一人一人が、教会に集っている他の人たちのために祈ることは非常に重要なことです。また同時に、こんなこと個人的なことだから教会で祈っていただなくてもよいようなことはなく、互いに覚えて祈り合うことにより、祈りが強められ、主によって受けいられます。信じて祈りましょう。
 パウロは最後で祝福の祈りを献げています(33)。礼拝の最後で、私たちも、説教者の祝福の祈りによって教会から世に遣わされていきます。教会は「祈りの家」であると同時に、「神の家」です。神様を信じる者たちが戻ってくる場所です。そして私たちは、教会から離れる時、主によって世へと送り出されます。世で様々な信仰の戦いがあるでしょう。しかし、主がいつも覚えていて下さり、祈っていて下さいます。だからこそ、私たちも互いに祈りあい、神の家、祈りの家である教会にいつでも帰ってくるものでありたいものです。
                                              (2004.8.22)



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