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【礼拝説教】  「私たちの神」  辻 幸宏牧師

ペトロの手紙二1章1〜2節

1:1 イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロから、わたしたちの神と救い主イエス・キリストの義によって、わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ。
1:2 神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。




T.手紙の差出人
 どの書簡でも同様ですが、差出人が記されていなければ、その手紙は信用されないのであり、私たちもこの手紙を読み始めるにあたり、改めて誰が誰に対して語る手紙であるのかがはっきりと確認しなければなりません。ペトロは最初に差出人として、「イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロ」と記します。シモン・ペトロと別人かとも思いますが、このシモン・ペトロの事です。「シメオン」とはヘブライ語の名です。一方「シモン」はギリシャ語読みです。このことは、読者の中にユダヤ人キリスト者もいたことを意識しているのかもしれません。
 ここで重要なことは、シメオン・ペトロが、「イエス・キリストの僕」であること、「使徒」であることです。「しもべ」より「奴隷」の方が強烈な印象を与えるでしょう。「奴隷」には、権利も自由も認められず、主人の支配の下に、完全服従が求められます。つまり、ペトロはイエス・キリストの言葉に全面的にひれ伏し、服従していることを告白しているのです。また、通常は自ら進んで奴隷となるものではなく、ペトロが自らの口で告白することは、「イエス・キリストの奴隷」、「主の僕」となることが、ただ隷属的に服従が求められるだけではなく、同時にそれに伴って与えられる恵みをはっきりと見据えているからです。つまり、イエス・キリストの奴隷となることは、同時に「罪の奴隷」、罪の刑罰としての「死の奴隷」から解放させられるのです。私たちは十戒を朗読しますが、十戒の序言では、旧約のイスラエルが実際の奴隷の状態から救い出されたように、キリストに結ばれたキリスト者は、罪の奴隷から救い出されたことを確認しているのです。しかしキリストに捕らえられなければ、この「罪の奴隷の状態」にあることが理解されないため、人々はイエス・キリストの僕になることを自ら願うことはないのです。
 またペトロは自らのことを「使徒」であると告白します。本来は「遣わされた者・使者」を表す言葉です。特別にキリストによって遣わされた12人が、使徒とされています。
 このように、イエス・キリストの僕であり、使徒であるシメオン・ペトロが手紙を書き送ると語ることは、この手紙を受け取った読者にとっては、主によって捕らえられ、主に全面的に仕えるペトロが、主から御言葉を受け取り、語り始めることを確認することができるのです。つまりこのようにペトロが手紙を書き始めることにより、これこそが神の言葉であるとの証言であるのです。

U.手紙の受け取り手
 @すべてのキリスト者
 では、手紙は誰に対して記されたのでしょうか? 第一の手紙では手紙の受け取り手を限定していました(1:1)が、第二の手紙では、受け取り手を限定するような言葉は見いだされません。ただペトロは「愛する人たち、わたしはあなたがたに二度目の手紙を書いています」(3:1)と語り、第一の手紙の存在を前提に記しています。つまり、第二の手紙で受け取り手を限定しないことは、第一の手紙が書き送った教会のみならず、別の教会にも語り継がれ、多くの教会の人々にすでに読まれていていたことを前提として語っているとも言えるでしょう。
 しかしペトロが第二の手紙の受け取り手を記すことにより、私たちはキリスト者とはどのようなものであるのか、知ることが出来ます。@三位一体なる神:日本語では「義」が何を受けているのか分からないのですが、「わたしたちの神」と「救い主イエス・キリスト」が単数名詞「義」にかかっています。「義」はいくつもあるのではなく一つです。つまり「わたしたちの神(父なる神)」=「救い主イエス・キリスト」であり、「父なる神」と「御子イエス・キリスト」が一人の神、つまり父・子・御霊なる三位一体なる神さまの存在をここで表し、この三位一体なる神さまの存在そのものが「義」であるのです。A神の義:「わたしたちの神の義」と語る時、無限・永遠・不変の霊である神が、存在において完全なる義であられることを表しています。B御子の義:一方「救い主イエス・キリストの義」と語る時、マリヤの胎より人として遜られて以来、地上の生涯において、律法を全うし、義を貫かれたことを語っています。
 つまり私たちの救いとは、神ご自身の義によるのであり、私たち自身には「義」なるものは何もなく、私たちの罪の償いをキリストの十字架に委ね、私たちが果たし得なかった律法による義の全うをキリストに委ねていることを語っています。だからこそ、私たちキリスト者が救われ、罪が赦され、義と認められ、神の子とされたのは、一方的に神の御業であると語ることが出来るのです。

V.神を知ること
 そしてペトロは、キリスト者とされた私たちが、さらに神の子として相応しくなるために必要なことを2節で付け加えます。「神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」。義と認められ、神の子とされ、信仰が与えられることは、神からの一方的な御業ですが、ペトロのように真にイエス・キリストの僕となり、そのように名乗ることが出来るためには、主なる神さまと、救い主イエス・キリストがどのようなお方であるかを知らなければならないのです。
 パウロは伝道旅行においてアテネに行った時(使徒17章)、アテネの人々が、『知られざる神に』と刻まれている祭壇に拝んでいることを指摘します。キリスト教信仰とは、訳の分からないまま、盲目的に信じるものではありません(使徒17:23-31)。主がお語り下さる御言葉に聞き、主なる神さまと救い主イエス・キリストがどのようなお方であるかの認識をしっかりと持たなければ、何が罪であり、何が救いであり、救いの結果何が与えられるのか分からないのです。だからこそキリスト者として信仰に生きる以上、私たちは御言葉に聞き、神がどのようなお方であるかを知る必要があります。キリストの十字架による罪の贖いと、救いが示されているからこそ、わたしたちは、恵みと平安を得ることが出来るのです。そして御言葉に聞き従う生活を送ることにより、罪の奴隷から解放され、救い主イエス・キリストの僕であることに喜びを得ることが出来るのです。

                                     (2008.8.10)
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