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【礼拝説教】  「すばらしい約束」  辻 幸宏牧師

ペトロの手紙二1章3〜4節
 1:3 主イエスは、御自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださいました。それは、わたしたちを御自身の栄光と力ある業とで召し出してくださった方を認識させることによるのです。1:4 この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。それは、あなたがたがこれらによって、情欲に染まったこの世の退廃を免れ、神の本性にあずからせていただくようになるためです。


T.伝道
 未信者はもちろんのこと、キリスト者ですら、真に生きて働かれる主なる神さまと出会っていないことがあります。それは主なる神さまの御力が私たち自身に働きかけていることを受け入れることが出来ていないからです。これは教会にとって大きな問題です。つまり闇雲に「神さまがいるから信じなさい」と語っても、神さまに真に出会っていない人たちが神さまを信じて礼拝するようにはなりません。そこに生きて働く主なる神さまの存在が人々に示されなければなりません。その上で、キリスト者に与えられる祝福が、どれほどす素晴らしいものであるかを、伝えていく必要があります。

U.主の存在を知れ!
 カルヴァンは、キリスト教綱要で、「聖書はいたるところで、昔の聖徒らが神の現臨を実感した時はいつも衝撃を受け、また打ち砕かれたと宣べている。・・というのも我々は神が不在であると見た時、安全にかつ確乎として立っていたのであるが、神の栄光が顕されるや否や、死の恐怖に打ちのめされるまでに揺すぶられ、おびえきり、いや実にそれに飲み干されてほとんど無になってしまうからである。そこから結論されることは、人は自己を神の尊厳と対置してみない限り、自らのいやしさについて自覚にさほど感銘させられたり動揺させられたりはしないということである。」と語ります。つまり、私たち自身がまず生きて働く主なる神さまの御前に立たされ、主の存在を受け入れざるを得ない状況に置かれることが必要なのです(参照:3節)。
 ヨナは、主によって召され、アッシリアのニネベに行き、悔い改めと主に立ち返るように語ることが求められました。しかし彼は、異邦人が罪を悔い改め救われることを嫌い、まったく方向違いのタルシシュ行きの船に乗り、主から逃れようとします。しかし主は嵐を起こし、彼の乗った船を難破させ、彼にはその嵐が主の御業であることが示されます。彼は主なる神さまを信じながらも、主に出会う前は、主に言い逃れを行っていたのです。しかし主の御力が示されると、服従せざるを得なくなるのです。
 ペトロも同様です。主イエスの弟子ペトロは、主イエスの伝道に3年間、付き添ってきましたが、彼は真の主には出会っていませんでした。だからこそ主イエスが逮捕された後、主に委ねることなく、自らの力で問題を解決しようとして、主イエスを三度否定することとなるのです。しかし復活の主イエスはペトロと出会い、彼の罪を赦し、受け入れ、宣教へと押し出して下さいました(ヨハネ21:15-19)。
 主ご自身がその姿を示し、預言者・使徒として立てられた者たちは、自らの弱さ、いやしさ、小ささなどが示されつつ、主の御前に遜り、主がお与え下さる御言葉、それは罪の悔い改めを迫り、主を信じること求め、大胆に人々に語る者へと変えられていったのです。

V.主が私たちに示されること
 つまり人が変えられ、主なる神さまを求め信じるようになるためには、主からの働きが必要なのです。聖書には二つのことが記されています。
 第一には、主ご自身の栄光と力がはっきりと示されることです。主は、天地万物を6日の内に作られた方、私たち人間の命を司られている方、私たちの全て(行い、言葉、心)を知っておられ、私たちの行いの故に最後の審判をなさる方です。主の栄光に比べれば、私たちは無に等しい存在です。私たちは今、命が与えられ、生活に必要なものが備えられ、不自由なく暮らすことが出来るのも、主の恵みです。しかし多くの人たちは、この主の御力が示されれず、この恵みが祝福であることが理解できないのです。だからこそ、主への礼拝、主への畏れがないがしろにされるのです。しかし、この主の御前に立たされた時、私たちは、自らの思いのままに生きる生活は改められるのです。
 第二には、主なる神さまが、その力において、つまり罪の赦しと救い、永遠の生命を、わたしたちにお与え下さったことが示されることです(3節)。これ程のすばらしい約束はありません。私たちは、自らの罪の故に裁かれることなく、かえって主の救いに入れられ、神の子とされているのです。そのために、主は御一人子イエス・キリストをこの世に賜り、私たちが果たし得なかった律法をキリストが果たし、私たちが背負わなければならなかった罪の刑罰としての十字架をキリストは担って下さったのです。

W.御言葉に生きる
 しかし、私たちは現実の問題として、旧約の預言者やペトロのように、主なる神さまの声を直接聞き、主イエスに出会うことは出来ません。しかし主は、私たちに御言葉である聖書をお与え下さり、主は聖書を通して、聖霊の働きにより、主の御力と救いを私たちにお示し下さいます(2節)。
 申命記6章の御言葉は、出エジプトを果たし、約束の地に向かおうとするイスラエルの民に与えられた主の御言葉です。主は奇跡をとおしてご自身の存在、知恵、力をイスラエルにお示しになり、約束の地を約束して下さっています。そしてこの救い主が、主の道を歩むために十戒をお与え下さいました(5章)。そして主は、約束の御言葉を子供たちに繰り返して教えるように語っておられます。つまり主に出会った者の信仰が、生き生きと次の世代に語り継がれる時、その信仰は、語られた御言葉によって伝えられていくのです。語り継がれる御言葉に、リアルさが欠けた時、生きて働く主なる神さまが概念化し、信仰も概念化、頭だけの信仰になります。これは現在日本の伝道の問題ですが、旧約のイスラエルの時代においても同様の問題であったのです。
 私たちの救い主である主なる神さまは、知的な概念的なお方ではありません。イスラエルに主の御力を示されたように、私たちに対しても主の御業をお示し下さいます。私たちは祈りが聞き届けられることにより、このことを確認することが出来るのです。さらに、私たちを死から救い出して下さることをお示し下さり、約束して下さいます。
 このことが理解できる時、初めて4節の「この栄光と力ある業とによって、わたしたちは尊くすばらしい約束を与えられています」との言葉を受け入れることが出来るのです。
この信仰は、私たちが御言葉を聞き続け、知識として身に着けることにより、信仰が確かなものとされていくのです。主なる神さまの筋の通ったすばらしい救いの御業が示された時、世における情欲に染まった退廃の中に置かれている自分が、初めて見えてくるのです。
 本日は聖餐式が用意されていませんが、聖餐式において食するパンと杯において、私たちは十字架の上で裂かれたキリストの体と流された血を想起します。しかし同時に、主が私たちにお与え下さる神の国における盛大な晩餐の前触れでもあることを忘れてはなりません。ここに集う者は、ごくわずかです。しかし、天国における食卓には、時代を超え、民族を超え、言葉の違いを超えた人々が集められ、主を誉め称え、賛美しつつ、主の晩餐に与るのです。今もなお生きて働く主なる神さまの御業に心から感謝します。


                                     (2008.8.10)
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