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【礼拝説教】  「真のキリスト者」  辻 幸宏牧師

ペトロの手紙二1章8〜9節

  8 これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。9 これらを備えていない者は、視力を失っています。近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています。



T.信仰=主イエス・キリストを知ること
 ペトロは、3節から真のキリスト者とはどうあるべきかを語ってきています。その前提は、@生きて働く救い主に出会うこと、A神さまによる罪からの贖いと永遠の生命という、救いのリアリティを持つことでした。そして真の信仰が与えられるならば、それに続く徳・知識・自制・忍耐・信心・兄弟愛・愛が加えられていくのです(5-7)。
 ここで、私たちが確認しておかなければならないことは、信仰義認との関係です。よく、「キリストのみ(恵みのみ)、信仰のみ」が語られます(参照:ガラ2:16)。信仰義認の教えは、宗教改革の旗印の一つであり、プロテスタント福音主義教会にとっては要です。
 しかしペトロは、良き業、信仰の実りが必要であると語ります。ここに違いがあるのか?
 「わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう」(8)。新共同訳では、信仰の結果、主イエス・キリストを知るように記されていますが、口語訳・新改訳ではニュアンスが異なります。「わたしたちの主イエス・キリストを知る知識について、あなたがたは、怠る者、実を結ばない者となることはないであろう」(口語訳)。イエス・キリストを知ることは、信仰の結果ではなく、信仰上、必要なことです。「信じれば救われる」と語る時、「イエス・キリスト(の十字架)を信じれば救われる」のであり、他の神ではありません。つまり、信仰を語る上で、イエス・キリストを知ることは、徹底的に重要なことです。キリストと出会い、キリストを知ることがなければ、真の信仰者にはなり得ないのです。
 ではキリストとの出会いとは何か? キリストが歩まれた道を受け入れることです。しかしキリストについて頭で知識を蓄える事ではありません。キリストがなぜ、その道を歩まれたのか、あなたにとってキリストの歩まれた道とは何かが問われるのです。

 なぜ、神の御子である方が、人として遜られる必要があったのですか?
 なぜキリストは、無罪でありながら、苦しみつつ十字架にお架かりになったのですか?
 なぜ、主イエス・キリストが、十字架の死を遂げられる必要があったのですか?
  − すべて、あなたの救いのためです。
 あなた自身の背負っているもの、それは罪であり、罪を背負ったままでは救いはありません。キリストはそのあなたの罪を担って下さったのです。そのため、あなたは自分自身の十字架を背負う必要はなくなったのです。キリストが死を遂げられることにより、あなたの罪は贖われたのです。
 そして、キリストが死から三日目に復活して下さったように、キリストに連なるあなたが肉体の死を遂げても、復活する希望が与えられています。キリストが再臨した時、復活し、新しい体が与えられ、神の国における神の祝福に満ちた永遠の生命が与えられます。
 キリストを知ることは、あなた自身が背負っている罪の死から解放させられ、喜びに満たされつつ、永遠の生命に生きることです。希望に満たされて生きる者とされるのです。キリストの希望に生きる時、人は己が道を歩んでいた者が、キリストの僕として、キリストに倣って歩む者へと変えられていくのです。つまり、「信じれば救われる」わけですが、救い主イエス・キリストを知れば知るほど、生活も変化を遂げていくのです。それが、信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加える者となるのです。

U.信仰の実りをもたらさない者
 従って、信仰を告白しながら、以前との生活が全く変化を遂げない者に対して、ペトロは9節で語ります。これらを備えていない者は、視力を失っています。近くのものしか見えず、以前の罪が清められたことを忘れています。これは最初から、イエス・キリストによって与えられる祝福が見えない盲人ではないのです。すでにキリストによって与えられている祝福が示されているのです。だからこそ、信仰を告白したのです。しかしながら、なおも生活に変化を遂げないのは、イエス・キリストの御業にピントがあっていないからです。主イエス・キリストによって与えられた救いのすばらしさがどれほどのものであるか理解できず、己自身の罪の大きさを忘れているのです。
 そうであれば、主イエス・キリストの見方、つまり聖書の読み方を変えなければ、本当の意味で、キリストを知ることは出来ません。物語、出来事として聖書を読むのではなく、聖書が自分に対して何を語りかけているかを考えながら読むことが必要なのです。


                                     (2008.9.7)
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