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【礼拝説教】  「仮の宿・地上の生活」  辻 幸宏牧師

ペトロの手紙二1章12〜15節

  12 従って、わたしはいつも、これらのことをあなたがたに思い出させたいのです。あなたがたは既に知っているし、授かった真理に基づいて生活しているのですが。13 わたしは、自分がこの体を仮の宿としている間、あなたがたにこれらのことを思い出させて、奮起させるべきだと考えています。14 わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです。15 自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、わたしは努めます。



T.この世は「仮の宿」である!
 今日の説教題を「仮の宿・地上の生活」といたしました。多くの方が「エッ」と声を上げられるのではないでしょうか。誰もが今の生活が何よりも一番大切であり、「仮の宿」とは思っていないからです。
 しかし、キリスト者であることをもう一度確認していただくことにおいて、この意味を理解していただけるのではないかと思います。クリスチャンになるとは、キリストの十字架により、私たちの罪が贖われ、私たちの罪が赦されたと同時に、神との和解が与えられ神の国における永遠の生命が与えられたことを信じているのです。そうであれば、神の子とされ、神の国における永遠の生命こそが、神によって創造され、神によって救いに与った私たちキリスト者の本来あるべき姿であることを理解していただけるかと思います。

U.幕屋と本殿
 ところで新共同訳聖書において「仮の宿」と訳されてる言葉ですが、実は意訳されており、本来の訳は「幕屋」です(口語訳・新改訳)。つまり、今の生活と神の国の関係は、旧約と新約の関係において確認することが出来るのです。
 さてここで幕屋に関して、確認しておきたいと思います。主は、イスラエルの民を選びの民として下さいました。そしてエジプトにおいて奴隷として苦しんでいたイスラエルの民に、指導者モーセを立て、救い出して下さいました。エジプトから脱出した時、主はモーセをホレブの山に登らせ、そこにおいて十戒をお与え下さったのです。
 しかしモーセがホレブの山にいる間に、イスラエルの民は主なる神さまを忘れ、金の子牛の像を造り偶像崇拝を行います。直接神さまを見ることの出来なかった民の弱さの表れです。この時に、主はモーセに対して、幕屋建設を命令され、幕屋において神礼拝を献げるように命令されたのです。そして、モーセが幕屋に出て行くとき、民は全員起立し、自分の天幕の入り口に立って、モーセが幕屋に入ってしまうまで見送ります(出エ33:8)。イスラエルの民は、自分たちが造った偶像には神はおらず、主なる神さまが造るように命じられた幕屋にこそ、主が臨在され、エジプト軍からイスラエルを救い出して下さったように、約束の地にまで導いて下さることを確信したのです。つまり、イスラエルの民は、直接神と出会うことは出来ませんが、幕屋を介して神と出会い、神を礼拝したのです。
 また、イスラエルの民は、繰り返し繰り返し幕屋の前で生け贄を献げることにより、自らの罪の赦しを主に願い、神による救いを確認していったのです。
 しかし幕屋はあくまでもテントであり、恒常的に神を礼拝する場ではありません。真のメシアであるキリストが来られる時までのものでした。だからこそ、主イエス・キリストが十字架の上に息を引き取られた時、神殿(幕屋)の垂れ幕は上から下まで真っ二つに裂けるのです(マタイ27:51、マルコ15:38)。キリストの十字架の御業において、イスラエルの民の救いは成就し、幕屋の働きが終了したのです(参照:ヘブライ9:11〜15)。
 つまりキリストの十字架により、永遠の罪の贖いが完成したのであり、神の民であるキリスト者は、もう繰り返し繰り返し生け贄を献げる必要がなくなったのです。
 そして、契約の箱が安置されている至聖所の前でなければ神礼拝を献げることが出来なかったものが、聖霊によって集められた神の民は、場所を定めることなく、教会を形成して、神礼拝を献げることが出来るようになったのです。つまり、旧約の幕屋における礼拝は、救い主であるメシアを待ち望んでいたのであり、ぼんやりとした状態にあったのであり、新約が光に照らされていることからすれば、「影」、仮の宿にすぎなかったのです。

V.肉の死から永遠の生命へ
 救い、罪の赦しは、キリストの十字架を境に、旧約と新約の時代を区別することが出来るのですが、しかし現実には神の国はまだ完成していません。まだ地上にあっては罪が残されています。だからこそ、罪赦されたキリスト者は、すでに神の国における救いが成就し、約束されているにも関わらず、今なお、罪赦された罪人であり、罪の中におり、今なお罪を犯してしまうのです。そして地上の生命には限りがあり、肉の死を避けて通ることが出来ないのです。
 しかし肉の死、地上の生涯を終えることは「仮の宿」から離れる時であると、ペトロは語ります。つまり本当の宿があるのであり、神の子、罪の赦しが与えられたキリスト者には、神の国、天国における永遠の生命という本当の宿が待っているのです(参照:Uコリ5:1)。神の国にこそ、本当の祝福があるのであり、罪もなく神さまを祝福し礼拝する歩みが続き、病気も苦しみもありません。だからこそ希望があるのです。

W.仮の宿と善き業との関係について
 最後に一つのことを確認しておかなければならないかと思います。それは、現在の生が、「仮の宿」に過ぎず、本当の宿である神の国を求めて生きる時、今の生活が疎かであっても良いのでしょうか? 一掃のこと、地上の生涯を縮めてまで、神の国を求めた方が良いのでしょうか? 決してそのようなことはありません。素晴らしい約束があるからこそ、地上の生涯にあっても、神さまによって救われた者として、感謝と喜びをもって、神の聖・義・真実に倣う者として生きることを求めていたのであります(参照:Uコリ5:2〜10)。

                                     (2008.9.21)
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