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【礼拝説教】  「仮の宿・地上の生活」  辻 幸宏牧師

ペトロの手紙二1章19〜21節

  19 きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。20 キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。21 あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。



T.預言の言葉
 私たちは今、キリスト教の正典であり唯一の信仰と生活の規範である旧新約聖書を手にしています。そして、救いの中心はキリストの十字架・死と復活にあり、新約聖書(福音書)を中心に聖書を読み、説教が語られます。しかし、私たちは旧約聖書も疎かにすることはいたしません。分厚い聖書(特に旧約)を読み通すだけでも至難の業です。来年から発行されます大会機関誌(リジョイス)の計画では、4年の間に、旧約聖書を1回、新約聖書を2回、読むことになっています。それだけ時間がかかります。
 そして、特に旧約聖書は、私たちにとって理解しがたい書物であることは、否定出来ないでしょう。その理由は、文化の違い、歴史的背景を理解していない事などにあるでしょう。しかしそれと同時に、旧約聖書があり、新約聖書があるという事実です。私たちは新約の光(特にキリストの十字架の御業)に照らして、旧約聖書を読むことが出来るのです。つまり聖書を読む時は、その箇所だけ一点に集中して読んでいては、理解できないのです。天地創造・人間の罪から始まり、旧約における神による罪の指摘と、イスラエルの救い、救い主の預言、キリスト・イエスの降誕・十字架・死・復活・昇天、終末における救いの約束という大きな救いの流れを思い浮かべつつ、聖書を読む必要があるのです。
 ですから、旧約の時代、イスラエルの民は、約束の救い主が、まだ来られていない段階であり、救いがぼんやりとしか知ることは出来なかったのです。そうした意味では、旧約のイスラエルの民よりも、私たちの方が、歴史的・文化的な理解を重ねることにより、主がお語り下さった意味をより深く理解することが出来るのです。
 旧約の時代、イスラエルの民は、幕屋において神礼拝を献げていました。メシアが与えられるとの約束がありましたが、どのような形でメシアが与えられ、救いが成就するか、彼らははっきりと知ることなく、罪の悔い改めを動物の生け贄により繰り返し行ってきていたのです。そうした中、律法が、自らの罪を吟味し、悔い改めと主への服従の指針としてではなく、善悪の基準、裁きの基準となり、他人の罪を裁く道具となっていったのです。
 しかし、イエス・キリストが降誕し、福音宣教を行い、十字架の死と復活を遂げられることにより、人々はキリストによる罪の贖いがなされ、義と認められ、神の子とされ、聖化されることが示されたのです。そのため、旧約の時代には朧気にしか見えなかった救いが、私たちにははっきりと見ることが出来るようにされているのです。

U.聖書の解釈
 それに続けて、ペトロは聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないと語ります(20)。律法学者たちは、聖書の御言葉を、人を裁く道具とし、自己保身を行っていました。しかし聖書が何が語っているか、私たちは確認しなければなりません(21節)。ここは、聖書は預言者たちの手によって記されましたが、なおも「聖書は神の言葉である」と語られる根拠となる言葉です。主は、預言者たちを立て、聖霊によって啓示され、聖書が記されているのです。そのため、私たちは、聖書が語る御言葉を通して、主が私たちに何を求めておられるかを聞き遂げなければなりません。
 聖書を自分勝手な思いで読むんではなく、主の御心を確かめつつ読まなければならないことは、良きサマリア人の譬え(ルカ10:25〜37)や、「金持ちの青年の譬え」(マタイ19:16〜22)で明らかになります。
 だからこそ私たちは、聖書を自分の都合の良いように解釈してはならないのです。むしろ、罪人である私たちをなおも愛していて下さる主なる神さまが、私たちに何をお与え下さるのかを覚えつつ、御言葉に聞かなければなりません。それは時として、罪を指摘し、生活を改める必要を求めます。厳しく戒められます。しかしその言葉の背後にある私たちを愛し、罪を赦し、神の民として下さる主なる神さまを覚えるべきです。

V.カトリック教会の誤謬
 最後に「自分勝手な解釈をしてはならない」と語る時、自分で聖書を読み、解釈してはならないと考えてしまうことがあります。もちろん、そのために教会は、聖書解釈の基準を信仰告白という形で示し、また説教を語る説教者も信仰基準を基にして準備いたします。しかし同時に、一人で聖書を読んではならい・聖書を解釈してはならないとは語りません。カトリック教会では、聖書解釈権は教会にのみあるとさえ語ります。しかしそうではありません。聖書を神の言葉として、自らの思い・自らの都合の良いように読んではならないのです。主は、私たちに罪があるにも関わらず、キリストの十字架の故に罪赦され、救いを与え下さることをお示し下さっています。主のお与え下さった恵みに、感謝と喜びをもって、主の御言葉に聞き従っていきたいものです。


                                     (2008.10.5)
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