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【礼拝説教】  「正しくない者たち」  辻 幸宏牧師

ペトロの手紙二2章9〜16節

  9 主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます。10 特に、汚れた情欲の赴くままに肉に従って歩み、権威を侮る者たちを、そのように扱われるのです。
  彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。11 天使たちは、力も権能もはるかにまさっているにもかかわらず、主の御前で彼らをそしったり訴え出たりはしません。12 この者たちは、捕らえられ、殺されるために生まれてきた理性のない動物と同じで、知りもしないことをそしるのです。そういった動物が滅びるように、彼らも滅んでしまいます。13 不義を行う者は、不義にふさわしい報いを受けます。彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。彼らは汚れやきずのようなもので、あなたがたと宴席に連なるとき、はめを外して騒ぎます。14 その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています。彼らは心の定まらない人々を誘惑し、その心は強欲におぼれ、呪いの子になっています。15 彼らは、正しい道から離れてさまよい歩き、ボソルの子バラムが歩んだ道をたどったのです。バラムは不義のもうけを好み、16 それで、その過ちに対するとがめを受けました。ものを言えないろばが人間の声で話して、この預言者の常軌を逸した行いをやめさせたのです。



序.
 前回、主に逆らい続ける者は、主の裁きから逃れることが出来ないことを、旧約聖書の3つを例にとって考えてきました。天使でさえも主の裁きから逃れられないのであり、いつの時代、どこに住んでいようと、誰一人、主の裁きからは逃れることは出来ません。つまり、救いに預かるためには、主が語られる御言葉に聞き従うこと以外にはないのです。
 そして今日のところでは、神の御言葉に背き続ける者たちの罪が列挙されています。

T.正しくない者たちの姿
 ペトロがここで思い描いているのは、ソドムの裁き(創世19章)です。ソドムのロトの家に招かれた二人の御使いに対して、彼らを捕らえるために、若者も年寄りもこぞってロトの家に押しかけてきます。主は二人の御使いを迎え入れもてなしを行ったロトと家族を救われる一方、そうでない者たちは、火で焼き払うという仕方で裁かれて行きます。このソドムの人々の罪についてペトロは、「汚れた情欲の赴くままに肉に従って歩み、権威を侮る」(10)と語ります。「権威=主権」は全てを創造し統治しておられる主にあります。被造物であり、主の御前に罪人である私たちにはありません。しかし私たちは、主の権威を見ることが出来ません。主の言葉によって示されなければ理解できないのです。ルカ16章に金持ちとラザロの話しがあります。主の権威は、御言葉によって信じなければ、どのような奇跡が起ころうと、地獄からの使者が遣わされようと、信じることは出来ないのです。
 次に主の裁きを免れない者の罪として、「厚かましさ」「わがまま」(10b)が挙げられています。主の権威を受け入れない者は、他人をも受け入れないがために、厚かましく、わがままとなるのです。13節以降では、いくつもの裁きに値する罪が指摘されます。こういう人々を、キリスト者は気をつけなければなりません。しかし同時に、私たち自身がこうした罪を犯していないか、日々自己吟味することも求められているのです。

U.人をそしる者
 ペトロはもう一つ罪を取り上げます。「そしり」です(10b,12)。彼らがそしる相手は、キリスト者です。「そしる」とは、単による批判に留まらず、「冒涜する、誹謗する、汚す、中傷する」と言った意味があります。また彼らは「知りもしないこと」でそしります。「無知」は重大な罪です。「分からないからいい」ではダメです。知らないから、神の力・権威・裁きを無視し、逆に侮り、そしることが出来るのです。いわゆる怖い者知らずです。
 こうしたことは、神についてのみではなく、私たちの生きる世界においても言えます。人を批判する時、私たちは、外見だけで判断してはなりません。批判は、相手の内実を知った上で、説得力をもった言葉で、誤り、偽りを指摘しなければなりません。
 その上で、キリスト者はそしる彼らに対して、批判をしないことです。キリスト者は、彼らが真の知識を持たず、キリスト者を批判し、迫害することに対して、さげすんだり、批判する必要はないのです。彼らの無知・過ちを指摘し、罪の悔い改めと信仰を求めるために話しかけることもあり得ます。彼らの悔い改めには主の御霊の働きが必要であり、私たちは主に委ねなければなりません。その上で、彼らが悔い改めなければ、彼らの裁きは、主に委ねるのです(Tペトロ2:23)。主の裁きを私たちのものとしてもなりません。
 ペトロは15〜16節でボソルの子バラムについて指摘します(参照:民数22-24章)。エジプトを脱出したイスラエルが約束の地カナンに帰還してきた時、そこに住むモアブの王バラクは、イスラエルを恐れます。そのためバラク王は、占い師であるバラムに対してイスラエルを呪わせようとします。そして占い師バラムは、その報酬に心を寄せ、イスラエルを呪うように祈ります。しかしバラムのろばに主の霊が宿り、このろばが人間の声で話し、バラムがイスラエルに対して呪いではなく、祝福を行わせたのです。主は、主に逆らう者の心を180度変更させる力を持っておられます。
 またパウロは、復活の主イエスに出会う前、ファリサイ人であり、教会を迫害してきましたが、復活の主イエスに出会うことにより、変化し、大宣教者となります。
 つまりキリストを侮り、キリスト者をそしる者であっても、主の霊が働くことにより、罪を悔い改め、主に立ち返ることがあるのです。これは主の御業です。ですから、迫害者であったとしても、私たち自身が裁きを行ってはならないのです。

V.キリスト者は、力も権能もはるかに勝っている!
 最後に、キリスト者は「力も権能もはるかにまさっている」(11)。私自身の知恵によるのではなく、主の権威により、主の勝利により、そしてキリストの十字架の贖いにより、私たちは義と認められ、神の子とされ、そして聖化の歩みを行っているのです。そして、キリストの再臨の時、完全なる勝利が与えられ、神の御国に向かい入れられるのです。
 これがどれほどの喜びでしょうか。全てを治めておられるお方による勝利が与えられるのです。だからこそ、今、彼らが権威を握り、彼らが主を侮り、キリスト者をそしったとしても、主に代わって裁くことも必要なく、また批判する必要もないのです。日々の生活の中で苦しみや悲しみが続くとしても、それを遙かに超える喜びが約束されているのです。忍耐しつつ、救いの喜びをもって、日々歩み続けていきましょう。


                                     (2008.10.26)
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