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【礼拝説教】  「大言壮語する者」  辻 幸宏牧師

ペトロの手紙二2章17〜22節

  17 この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです。18 彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。19 その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。20 わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。21 義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。22 ことわざに、/「犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る」また、/「豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る」と言われているとおりのことが彼らの身に起こっているのです。




序.
 17「この者たち」=偽預言者(1)です。2章全体を通して偽預言者たち、つまりキリストに逆らい、裁きを受ける者について語られてきました。私たちはここから、主による救いにあることに感謝しつつ、私たちは主に逆らい続ける人たちについて真摯に耳を傾けなければなりません。彼らを知らなければ、私たち自身が同化させられ、取り込まれるのです。

T.信仰の土台としての御言葉(生命の泉・岩の土台)
 さて詩編23編には、キリストに繋がる者の永遠の潤いが、豊かに叙述されています。私たちの心を豊かにし、希望と喜びを与える詩編です。主に繋がり、主の御言葉に聞き続けることは、生命の泉に満たされます。また主イエスはサマリアの女に対して語られます。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4:14)。主を信じ、主がお語りになる御言葉によって生かされる者は、希望を持ち続けることが出来るのです。御言葉が、体全体を潤すのです。一方、偽預言者らは主に逆らい続ける者は干上がった泉です(17)。ここに生命の泉としての御言葉がないからです。語られる言葉が泉のように人を潤すのは、主が語られる御言葉のみで、御言葉抜き・教会抜きの信仰は死んでしまうのです。
 ペトロは続けて「嵐に吹き払われる霧」(17)と語ります。主イエスは山上の説教で家の土台について語ります(マタイ7:24-27)。信仰の土台は、岩としての御言葉がなければならないのです。御言葉を聞かない、御言葉を聞いても行わない者は、雨が降れば倒れます。従って偽預言者の言葉は、霧のように全体を覆い尽くしているようでも、嵐が一吹きすれば、吹き払われ無に帰するのです。すぐに消え去る霧ではなく、嵐や台風・地震が発生しても、ビクともしない御言葉の岩の土台に立つことが私たちは求められているのです。

U.大言壮語
 ペトロは次に「無意味な(空しい)大言壮語」と語ります。彼らの言葉には御言葉はなく、神にとって空しいのです。しかし人々にとっては魅力的な言葉にもなります。だからこそ、迷いの生活からやっと抜け出てきた人たち、つまり信仰生活を始めたばかりの人たちには、肉の欲・みだらな楽しみの誘惑となります。宝くじやギャンブルを人々は、夢を持ち信じてしまいます。魅力があるからです。人を引きつけます。嘘だと思っていても信じてしまう、そのような弱さを私たちは持っているのです。信仰者であれども、岩の土台という御言葉にしっかりと根を張っておかなければ、彼らの大言壮語に揺り動かされるのです。
 しかし彼らの言葉は、空しいのです。力ある言葉・真理は、主が語られる御言葉にみです。人間の考える事柄は、主の御前にあってはすべてが空しいのです。彼らは、人には喜び・自由を与えると語りつつも、無に等しいのであり、騙すつもりがあろうがなかろうが、人を騙すのです。そして彼ら自身は滅亡への道・地獄に向かいます。「深い暗闇」(17)です。
 だからこそ、私たちは真理が示される唯一の道である主の御言葉に聞き続けること、主なる神さまを信じ続けることが求められているのです。私たちが服従すべきお方は、天地万物を創造し、私たちの救い主である主なる神さまの他にいないのです。主の御言葉に聞き、主の御言葉に服従しなければ、無意味な大言壮語を語る者に従うか、あるいは自らが主となり、大言壮語を語る者となってしまうのです。どちらでもない状態はあり得ません。

V.御言葉に聞く=救い主イエス・キリストを知ること、義の道
 主の御言葉に聞き従うことは、救い主イエス・キリストを深く知ることです(20)。これぞ福音です。御言葉に、主イエスこそが真の神の御子であり、救い主であることが語られているからです。そして御言葉に聞く者は、キリストの十字架の御業により私たち自身の罪の赦しが与えられたこと、キリストの再臨により神の国が完成し、神の民が神の国における祝福に満たされることを知るのです。だからこそペトロはさらに言い換えて、「御言葉に聞き従う者は、義の道を知っている」(21)と語ります。信仰を貫くことにより、神の国における祝福に導かれます。これがどれほどの祝福であるか、どれだけの喜びであるか。
 しかし、神を求めながらも、離れていく者がいます。彼らは、信仰により罪の刑罰の死から免れ、永遠の神の御国の祝福を知りながら、それを捨て、滅びに向かうのです。彼らは神の国の祝福以上に、目の前のこと、つまり肉の欲に魅力を感じてしまうのです。それは裏を返せば、本当の意味での救いによる神の国の祝福がどれほど素晴らしいものであるか理解できず、生きて働く主なる神さまを受け入れていない、理解していないからです。
 主による生命の泉が与えられていることに感謝します(詩編23編)。



                                     (2008.11.2)
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