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【礼拝説教】  「愛する人たちへの手紙」  辻 幸宏牧師

ペトロの手紙二3章1〜2節

  1 愛する人たち、わたしはあなたがたに二度目の手紙を書いていますが、それは、これらの手紙によってあなたがたの記憶を呼び起こして、純真な心を奮い立たせたいからです。 2 聖なる預言者たちがかつて語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた、主であり救い主である方の掟を思い出してもらうためです。



T.神の愛によって生かされているキリスト者
 ペトロは2章では偽預言者について語ってきましたが、3章に入り一転して、「愛する人たち」と繰り返して語ります(1,7,14,17節)。偽預言者は、滅びに至る者として記されてきましたが、「愛する人たち」はその逆です。
 だれが愛するかと言えば、主語は著者であるペトロです。主によって捕らえられ、信仰を持ち、迫害の中にあっても救いの喜び生きる人たちを、ペトロは「愛する人たち」と語ります。これがキリスト者の隣人愛です。同時に、主なる神さまによって愛されている人たちです。主の愛は、人を死から生へと移します。罪の裁きとしての滅びから免れ、永遠の生命へと導かれます。キリストの十字架がこれを可能にするのです。神さまによって愛されている者は、神さまによって呼び集められ、信仰の道を歩み続けるのです。
 ペトロは、愛する人たちに二度目の手紙を書いています。私たちは、第一の手紙に続く第二の手紙であるとの認識で手紙を読んでいます。しかし当時は、「ペトロの手紙二」という表題はつけられていませんでした。日本語で読んでいますとなかなか違いを見ることが出来ませんが、第一の手紙と第二の手紙では文体が異なり、別の作者が書いたのではないかと言われます。そのためペトロが「二度目の手紙」と語る時、別の手紙があったとか、1章と3章は別の手紙であり、1章のことを語っているのかとも言われます。しかし文体の違いは、第一の手紙はシルワノの手で速記されているのであり(5:12)、第二の手紙は、ペトロ自身もしくわ別の速記者によって記されていることにより説明できます。
 ペトロは第一の手紙で、苦しみの中にあっても神の国の希望を持って生きるよう励ましの手紙を記しました。第一の手紙は繰り返されて読まれたことでしょう。しかし、人は弱く、信仰は弱まります。ペトロが二度目に手紙を書いているのは、信者は、信仰の闘いの中、信仰的に弱さを覚えています。しかし主によって愛されている者が、天国への道からそれることなく、神の国に向けての歩みを続けることができるようにとの思いからです。
 主は私たちを毎週主日毎に主の御前に集め、主を礼拝をするよう促します。私たちは、一度、神さまを信じればそれで良いのではありません。繰り返し主の御前に集められ、主の御言葉によって養われる必要があります。人が弱く、誘惑が押し迫り、救いの喜びを忘れるからです。しかし、神さまは私たちを愛していて下さっているからこそ、福音に生きることを求めます。このことは、ペトロの言葉によって鮮明になります(1b)。神の御前に立たされた時、私たちは行い・言葉・心において不純です。しかし主によって生かされた者は、主によって純粋さが与えられます。主の御言葉が語られる度に、自らの罪が指摘され、悔い改めが迫られます。そして神の子として、救いに生きる者であることが御言葉により宣言されます。つまり純粋な心は、御言葉の養いによるのです。まさに私たちは土の器であり、私たちの内には、なにも良いものはないのですが、主の御言葉により偉大な宝が与えられ、主の御言葉に聞き従う時に、主の純真な心が表れ、人々に対して、主を証しすることが出来るようにされていくのです(Uコリ4:1-15)。

U.聖書が語る福音
 ペトロが二つの手紙を通して語ってきていることは、旧・新約聖書全体で語っていることでもあります(2)。預言者は旧約聖書全体であり、使徒たちが伝えたことは新約聖書のことです。つまり、旧・新約聖書66巻がペトロの語ることと一致しているのです。その中心が、主イエス・キリスト、特に十字架です。旧約聖書はそれを前の時代から預言の形で語り、新約聖書は、十字架の後に、証明という形で語っていくのです。
 主によって愛されており、召し集められてキリスト者になった一人一人は、このキリストの十字架に繋がっているのです。真の神の御子である方が、人として遜られ、人として裁きをお受けになられたのです。これは神が私という一人の人間を、そして教会に集められている全ての人を、神さまが愛していて下さっているからです。キリストの十字架は、滅び行く私たちの持っている罪を償って下さるためでした。
 キリスト者は、このキリストの十字架の贖いにより、自らの罪の償いが成し遂げられ、死から永遠の生命へと招き入れられ、神の子として生き続けることが出来るのです。このキリストに繋がることにより、私たちは永遠の祝福が約束されています。この約束は、天
地万物を創造し、今なお全てを御支配になられている神だからこそ、揺るぎないものです。
 この後、私たちは主の晩餐に招かれますが、ここで示されるパンによりキリストの割かれた体を覚え、杯によりキリストの流された血を覚えます。それと同時に、神の国の完成時に与えられる主の大晩餐を覚えることが出来るのです。私たちキリスト者は、この天国における大晩餐に招かれているのです。言葉も、国も、肌の色も、また時代も異なる全てのキリスト者が、この大晩餐に集うのです。
 この主によって愛され、主によって大晩餐に招かれている祝福に喜びを覚える時、今、信仰の故に苦しみにあったとしても、誘惑にあったとしても、それに耐え、騙されることなく、主の御言葉に聞き続け、主の救いの喜びを持ちつつ、日々歩み続けていくことが、求められているのです。

                                 (2008.11.16)
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