【申命記続講解説教】  辻 幸宏牧師

「荒れ野の40年を経て」  申命記1章1~5節



申命記1章1~5節

  1 モーセはイスラエルのすべての人にこれらの言葉を告げた。それは、ヨルダン川の東側にある荒れ野で、一方にパラン、他方にトフェル、ラバン、ハツェロト、ディ・ザハブがあるスフに近いアラバにおいてであった。2 ホレブからセイルの山地を通って、カデシュ・バルネアまでは十一日の道のりである。3 第四十年の第十一の月の一日に、モーセは主が命じられたとおり、すべてのことをイスラエルの人々に告げた。4 モーセがヘシュボンに住むアモリ人の王シホンを撃ち、アシュタロトに住むバシャンの王オグをエドレイで撃った後のことであった。5 モーセは、ヨルダン川の東側にあるモアブ地方で、この律法の説き明かしに当たった。




序.
 キリスト教の中心は、御子イエス・キリストの十字架による、神の民であるキリスト者の罪の贖いです。そのため新約聖書、特に福音書が、礼拝においても多く取り上げられます。しかし、神による福音の本質を知ろうとする時、旧約聖書のイスラエルから人間の持っている罪を確認し、それでもなお神の一方的な恵みによってイスラエルが捉えられ、救いの中に入れられていることを覚えることは非常に重要であります。

Ⅰ.申命記の記された背景
 申命記は、「言葉」あるいは、「第二の律法」、「律法の写し」と言われていた書簡で、モーセ五書の最後に位置します。日本語の表題は中国語から来ているのですが、「神の律法が再び与えられた」ことを語っています。
 イスラエルの民は、主によって奴隷の状態であったエジプトから解放され、荒れ野の40年を経て、約束の地カナンを目の前にしています。モーセは、ホレブ(シナイ山)からカデシュ・バルネアまでは11日の道のりです(2)。つまり、主の一方的な救いが与えられ、約束の地カナンに入ろうとしているイスラエルですが、わずか11日の旅路で行くことが出来る距離を、イスラエルは40年という途方もない長い月日を要したのです。
 イスラエルの民は、主による一方的な御力により、エジプトにおける奴隷の状態から解放させていただき、主による救いを覚えつつ、律法の書である十戒を授かりました。十戒の序文では「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」と語られているとおりです。つまり律法は、神の民が救いの感謝と喜びをもって生きるために、与えられたのです。
 しかし律法を授かった神の民は、律法の本質を忘れ、罪を犯すのです。一つは律法主義であり、もう一つは律法廃棄です。申命記が記された文脈で考えなければならないのは、後者の律法廃棄のことですが、最初に律法主義に関して、確認をしておきます。律法主義は、律法に従うことによって救われるような錯覚を持ってしまうのです。ですから、彼らは、律法を守らねばならないものとし、律法を守ることの出来ない人々を罪人して裁くのです。しかし順序は逆であり、主がイスラエルを救って下さった結果、主の民として生きるために、罪から離れ、神の義に従って生きるために、律法は与えられたのです。

Ⅱ.イスラエルの背信
 では、当時のイスラエルはどうであったのか? 主がモーセを通して十戒をお与え下さっている時、イスラエルの民は金の子牛を作り、偶像崇拝を始めたのです(出エジ32章)。彼らは、出エジプトに伴い主が行われた数々の奇跡を目の当たりにしてきたのですが、主から離れ、偶像を神とし、主のお与え下さった律法を捨て去ったのです。また彼らは主の御力を忘れ、約束の地に住む異邦人を恐れ、約束の地に入ることを拒んだのです(民数13~14章)。その結果彼らは、11日の道のりを、40年もの月日を費やすこととなったのです。

Ⅲ.律法の再授与
 申命記が第二の律法と呼ばれるものは、まさに生きて働かれる主なる神さまを忘れて罪を犯したイスラエルの罪の故の40年を経ての出来事であったからです。40年前に、20歳以上の青年は、ヨシュアとカレブ、そして申命記の説教を最後に、約束の地カナンを前にして死んでいくモーセを除いて、すべて死に絶えたのです。イスラエルは、この40年が自分たちの罪の結果であったことを顧みつつ、主がお与え下さる約束の地に入ることが許される主の恵みを、改めて確認しなければならないのです。そのために、主は改めて、モーセを通して、若いイスラエルの民に対して、律法を解き明かし始めるのです。
 歴史とは、顧みなければ忘れ去られ、同じ過ち、同じ失敗、同じ罪を繰り返すのです。そして主なる神さまは、歴史をとおして、私たちを御支配になられ、私たちに救いの恵みをお示し下さいます。だからこそ私たちは、旧約聖書に記されている歴史から、そして主イエスの時代の歴史から、さらには新約の教会の歴史から学び、それぞれの時代に生きた人々に与えられた神の救いと恵み、さらには彼らの罪を顧みつつ、私たちに与えられている救いの恵みがどれほど豊かであるかを、顧みなければなりません。
 主によって与えられた恵みに感謝することは、同時に主によって与えられた恵みの賜物を用いて、積極的に主のために働き、教会を形成することです。インマヌエル、主は我らと共におられます。「畏れをもって主を仰ぎ見」つつ、主のために仕えて奉仕することが私たちに求められています。


                                     (2012.2.26)

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