【申命記続講解説教】  辻 幸宏牧師

「主の命令」  申命記1章6~8節



申命記1章6~8節

  6 我々の神、主はホレブで仰せになった。「あなたたちは既に久しくこの山にとどまっている。7 向きを変えて出発し、アモリ人の山地に行き、更にその近隣地方、すなわちアラバ、山地、シェフェラ、ネゲブ、沿岸地方に行きなさい。更にカナン人の土地、レバノン山、大河ユーフラテスにまで行きなさい。8 見よ、わたしはあなたたちにこの土地を与える。」あなたたちは行って、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに、彼らとその子孫に与えると誓われた土地を取りなさい。




序.
 私たちが旧約聖書に聞こうとする時、生きて働く主なる神さまのご計画とその成就を思い描きながら読むことにより、私たちに語りかける御言葉を見つけることが出来るのです。

Ⅰ.主の約束
 今日の御言葉には、出エジプトを果たした時に主がモーセにお命じになったことが記されています。主の約束は、40年を経てようやく実現したのです。この遅れの原因にあるイスラエルの罪を忘れてはなりません。また、主が「わたしはあなたたちにこの土地を与える」とお語りになったのは、400年前に主がアブラハムに対してお語りになったこと(創世記12:7)であることも忘れてはなりません。神の大いなるご計画が成就するのです。
 新約に生きる私たちも、主の約束が成就する希望をもって、信仰生活を歩むのです。それは、主イエスが天に昇られる時、再臨の約束をお与え下さり、最後の審判をもって神の国が完成するとお語り下さった約束の希望です。主イエスの昇天から2000年が経ち、主の約束、主の存在に疑問を抱き、信仰から離れていく人たちもいます。生きて働かれる主なる神さまの存在、主の約束が希薄となり、信仰が思弁的・抽象的になって来ています。
 しかし聖書は語ります。「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒1:11)。黙示録22:10-15の約束も忘れてはなりません。「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(Ⅱペトロ3:8-9)。

Ⅱ.聖戦はあり得るか
 主は、イスラエルが約束の地カナンに住む原住民を滅ぼして、約束の地に入るように命じられます。いわゆる「聖戦・聖絶」する命令です。新約の今の時代、旧約における主の命令は理解しがたいです。「聖戦」の名の下、アメリカは戦争を行っていますが、旧約聖書が語る「聖戦」と似て非なるものであることを私たちは理解しなければなりません。
 聖戦は旧約の時代だからこそあり得たのです。つまり旧約の時代、主は、アブラハムをはじめとする族長たちやモーセ・預言者たちを立て、直接お語りになり、御言葉を発せられました。主が直接、カナンの先住民を聖絶するように命じられるのは、彼らが神の民とはならず、滅びの民であることを主が知っておられるのであり、聖絶を命令することが出来たのです。また主が聖絶を命令されるのは、主の御力の絶対性を示すものでもあります。
 一方現在では、主は聖霊をとおして御自身を現し、御言葉の宣教によって福音宣教を行われています。しかし、主が直接、私たちに啓示されることはなく、啓示は御言葉の聖書を通して間接的に行われるのです。つまり、私たちは直接、主から命令を受けることはないのです。また、主イエスは、罪人を回心に導き、罪の悔い改めと信仰を告白する者をお集め下さったのです。ですから新約の時代に生きる私たちは、たとえ異教の民であっても、悔い改めの時が訪れ、主の民として生きる可能性があるものとして、祈り・忍耐することが求められるのです。その上で、裁きを自分たちで行おうとするのではなく、主に委ねることが求められています(参照:毒麦のたとえ・マタイ13:24~30)。だからこそ新約の今、聖戦はあり得ないのです。「聖戦」と語り戦争を行う為政者は、聖書を知らないのです。
 では「戦争」はどうか?「戦争はしてはならない」と言いたいところです。しかし戦争をしてはならないとまでは言えないのです。それは、主に逆らう独裁者がいるからです。独裁者により、罪のない人々の血が流され、命が失われていくのです。こうした場合、抵抗という形で戦争をせざるを得ないことがあるのです。理由のない虐げから多くの人々の身を守るために武力を持ち、戦争することもあり得るのです。しかし極力行うべきではありません(参照:ウェストミンスター信仰告白23:2)。

Ⅲ.主の御言葉に聞き従え!
 旧約に生きるイスラエルの民は、主のご命令に従い、約束の地カナンに入る時、主の御声を聞かず罪から離れない現地の人々と戦い、滅ぼすことにより、約束の地に入っていくのです。イスラエルの民に求められたことは、主を信じ、主の御声に聞き従う事でした。そのことにより、主からの祝福・救いの約束に入れられることを彼らは確認したのです。
 新約の時代に生きる私たちには、すでに主イエス・キリストの十字架による罪の贖いが成就したのです。そして主の直接的な啓示は閉ざされているのです。
 しかし、旧約のイスラエルと新約に生きる私たちは、同じ神による救いの民とされているのです。主なる神さまは救いの民を、皆、神の御国、天国に導いて下さる約束をお与え下さっているのであり、信じることにより救われるのです。そして、旧約のイスラエルも、新約に生きる私たちも、救いの希望に生きる時、主のお語りになる命令に対して、服従する民として、生きるのです。主の約束を信じて、主のお語りになる命の言葉に聞き従う、それが、私たち神の民に求められていることなのです。


                                     (2012.3.25)

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