【申命記続講解説教】  辻 幸宏牧師

「周囲に住む人々」  申命記2章1~23節



申命記2章1~23節

  2:1 我々は向きを変え、主がわたしに告げられたように、葦の海の道を通って荒れ野に向かって行き、長い間セイルの山地を巡った。2:2 主はわたしに言われた。2:3 「あなたたちは既に久しくこの山地を巡った。北に向かって行きなさい。2:4 あなたは民にこう命じなさい。あなたたちはこれから、セイルに住む親族エサウの子孫の領内を通る。彼らはあなたたちに恐れを抱いているから、よく気をつけなさい。2:5 彼らに戦いを挑んではならない。彼らの土地は、足の裏で踏めるほどのものでもあなたたちには与えない。セイルの山地は既にエサウの領地として与えた。2:6 食物は彼らから金を払って買って食べ、水も彼らから金を払って買い、飲むようにしなさい。」
  2:7 あなたの神、主は、あなたの手の業をすべて祝福し、この広大な荒れ野の旅路を守り、この四十年の間、あなたの神、主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった。2:8 我々はセイルに住む親族エサウの子孫を離れ、エイラトとエツヨン・ゲベルからアラバを走る道を避けて向きを変え、モアブの荒れ野に通ずる道を通った。
  2:9 主はわたしに言われた。「モアブを敵とし、彼らに戦いを挑んではならない。わたしはその土地を領地としてあなたには与えない。アルの町は既にロトの子孫に領地として与えた。――2:10 かつて、そこにはエミム人が住んでいた。強力で数も多く、アナク人のように背の高い民であった。2:11 彼らもアナク人と同様に、レファイム人であると見なされているが、モアブの人々は彼らをエミム人と呼んでいた。2:12 セイルには、かつてフリ人が住んでいたが、エサウの子孫は彼らを追い払って滅ぼし、代わってそこに住んだ。これは、イスラエルが主から与えられた領地を手に入れたのと同様であった。――2:13 さあ、立ち上がって、ゼレド川を渡りなさい。」
  我々はゼレド川を渡ったが、2:14 カデシュ・バルネアを出発してからゼレド川を渡るまで、三十八年かかった。その間に、主が彼らに誓われたとおり、前の世代の戦闘員は陣営に一人もいなくなった。2:15 主の御手が彼らに向けられ、陣営に混乱が引き起こされ、彼らは死に絶えたのである。
  2:16 戦闘員がこうして皆、民の中から死に絶えた後、2:17 主はわたしに仰せになった。
  2:18 「あなたは、今日、モアブ領アルを通り、2:19 アンモンの人々のいる所に近づくが、彼らを敵とし、彼らに戦いを挑んではならない。わたしはアンモンの人々の土地を領地としてあなたには与えない。それは既にロトの子孫に領地として与えた。」――2:20 ここも、レファイム人の土地と見なされている。レファイム人はかつてここに住んでいた。アンモン人は彼らをザムズミム人と呼んでいた。2:21 彼らは強力で数も多く、アナク人のように背が高い民であったが、主が彼らを滅ぼされたので、アンモン人は彼らを追い払い、代わってそこに住んだ。2:22 それは、セイルに住んでいるエサウの子孫のために主がなさったことと同様である。主は彼らの前からフリ人を滅ぼされたので、エサウの子孫は彼らを追い払い、代わってそこに住み、今日に至っている。2:23 また、カフトル島から来たカフトル人はガザとその近くの村落に住んでいたアビム人を滅ぼし、代わってそこに住んだ。――




Ⅰ.旧約聖書を読むこと
 多くの方々が、日々の生活や働きに追われている中、御言葉を通読することに困難を覚えます。しかし、だからこそ神さまの御前に時間をとって聖書を通読し、祈りに時間を割いて頂きたいと思います。そうすることにおいて、神さまの存在がないかの如くに動いている社会の中にあって、何事においても、常に神さまの御前に立って、信仰的な判断を下していくことが出来るのです。
 旧約聖書を知ること、つまり繰り返しイスラエルの罪が語られ、それでもなお主によって与えられる与えられるイスラエルの救い、メシアの約束を確認することにより、新約において与えられた神の御子イエス・キリストの十字架の御業に、光が当てられ、より深みをもって理解することが許されるのです。

Ⅱ.主のご命令
 主の一方的な恵みによって奴隷であったエジプトの国から脱出したイスラエルですが、不信仰の故に、長い間、荒れ野を彷徨いました。申命記は、40年後、約束の地カナンを前にしたイスラエルに対して、主が御言葉をお語りになります。
 3「あなたたちは既に久しくこの山地を巡った。北に向かって行きなさい」。荒れ野を彷徨っていたイスラエルには、待ちに待った主の命令です。しかし人は現状に甘んじ、新しい行動を躊躇するのです。イスラエルは、出エジプトの時、エジプトにおいて奴隷であった方が食べ物があったと繰り返し不平を語りました。ついには、金の子牛を造り偶像崇拝をしたのです。荒れ野での40年を経験することになった不信仰もありました。
 今、主の御前に集められ、主を礼拝しています私たちはどうでしょうか? 主がお語りになる御言葉・命令に対して準備しているでしょうか? イスラエルにとって主の命令は、奴隷から解放すること、約束の地、乳と蜜の流れる所に導くことでした(民数記13:27)。しかしイスラエルは躊躇したのです。私たちはどうか?311において、地震・津波・原発事故により、日本社会が今試されています。主からの警告が発せられているのです。神を忘れ、己が欲のままに皆が生き、政治も経済も教会も、神を畏れた生活を行うことを忘れていたことの主の警告です。日本社会は311以後も、同じ過ちが繰り返されています。これが問題です。主の警告、教会もそしてキリスト者一人ひとりも、主の御前に己の姿を顧みなければなりません。
 改革派教会特に中部中会では、4~5年後多くのの先生方が引退され、説教者が足りなくなることが現実的です。牧師が少なくなり、教会が小さくなることを恐れ、嘆いていても仕方がありません。議論する時、人間的な方法で解決しようと試みてしまいます。しかし人間的な対応をするのではなく、主はこのことを通して私たちに何を求めておられるのかを祈り考えつつ、それでもなお主の御前に恵みが与えられていることに感謝しつつ、現状を受け入れ、主の求めに答えていくことが求められているのです。つまり毎日の生活が、御言葉によって着飾り、何事においても信仰的な判断をもって歩むように、常に主の御前につまり有神論的人生観・世界観に生きること、「飲むにも食べるにも何をするにおいても主の栄光のために行うこと」が、主は私たちに求められているのです。そうすることにより、突発的な事柄にも、主の御意思を確認し、信仰的な対応をすることが出来るのです。

Ⅲ.周囲に住む人々
 さて、イスラエルにとって、主の命令により、約束の地カナンに向かっていくことは、たやすいことではありませんでした。脱出時、壮年男子だけでも60万人(出エジプト12:37)いたイスラエルが移動しているからです。
 旧約聖書を読む時に私たちは注意しなければなりません。「聖戦・聖絶」が語られます。しかし主は、異邦人であれば、皆殺すように命じておられるのではありません。主が「滅ぼすように命じられる」のは、彼らが主の御前に罪を犯した刑罰であり、異邦人であれば誰でも殺すように、主は命じられたわけではないのです。特にここで記されている人々は、イスラエルの親戚筋です。イスラエルに与えられた土地カナンの近隣に住む人々として、旧約聖書をとおして、イスラエルと親密な関係にあった人々です。①最初に出会うのは、セイルに住むエサウの子孫の領内、つまりエドムの地方の人々です。ヤコブの兄弟エサウの子孫ですので、400年以上前に分かれた民です(参照:創世記 38:8)。②次にモアブです。彼らはアブラハムの甥ロトの子孫です(参照:創世記19:36)。③最後のアンモン人もロトの子孫です(参照:創世記19:36)。
 ここで3つの部族が記されていますが、いずれも先住民がいたのです。しかし、主がエサウの子孫エドム、ロトの子孫のモアブとアンモンに土地をお与え下さったのです。彼らはすでに自分たちの神を造り、崇拝していました。イスラエルからすればすでに異邦人となっていたのです。しかしすべてを御支配になるのは、主なる神さまのみであり、主が彼らに土地を与えたことを聖書は記すのです。つまり主なる神さまの御支配は、約束の民イスラエル、クリスチャンと共にあるばかりか、神さまから離れていった民たち、異邦人・異教信者の上にも及ぶのです。主の御支配が及ばない所はないのです。
 私たちは、ほとんどが神さまを知らない人たちである日本に住んでいます。しかし、主の御支配は、その神さまを知らない人たちにまで及んでます。主の御支配と無関係にある人々、主の御支配と無関係な事柄は、何一つないのです。そして一般恩恵として、神さまを知らない人たちに対しても、住む家、仕事、様々な恵み、食料といったものが主なる神さまの恵みとして備えられており、神さまの恵みが及んでいるのです。
 その中にあって、主は、主によって救いに入れられたイスラエル、主によって救いに導かれたクリスチャンである私たちと共にいて下さり、主の恵みの中に入れて下さるのです。神さまを知らない人たちにでさえ、豊かな恵みと祝福をお与え下さる神さまは、神さまを信じている私たちにはなお豊かな恵みと祝福をお与え下さいました。それは地上における豊かさとは異なります。目に見えない豊かさ、祝福、つまり、神の御子イエス・キリストをこの世に賜り、十字架に献げて下さったのです。神の民とされたキリスト者は、罪が赦され、天国における永遠の生命が約束され、祝福が与えられています。
 そして主による救いに与ったキリスト者は、今も主の御支配の下にあり、主を畏れと誉れをもって歩むのです。主が救いをお与え下さる愛と恵みに満ちたお方であると同時に、主の義、主の真実が貫かれる時に示される神の御力としての神の裁きをも知っているからです。私たちが旧約聖書を読まなければならないのは、旧約聖書を読むことにより、イスラエルの民に、生きて働くこの主の御力が示されることにより、私たちが神の御前に畏れをもって歩むことが出来るようになるためです。

                                     (2012.8.26)

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