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【礼拝説教】  「なぜ、私が・・」  辻 幸宏牧師

出エジプト記4章1節〜17節
  1 モーセは逆らって、「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言うと、2 主は彼に、「あなたが手に持っているものは何か」と言われた。彼が、「杖です」と答えると、3 主は、「それを地面に投げよ」と言われた。彼が杖を地面に投げると、それが蛇になったのでモーセは飛びのいた。4 主はモーセに、「手を伸ばして、尾をつかめ」と言われた。モーセが手を伸ばしてつかむと、それは手の中で杖に戻った。5 「こうすれば、彼らは先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主があなたに現れたことを信じる。」6 主は更に、「あなたの手をふところに入れなさい」と言われた。モーセは手をふところに入れ、それから出してみると、驚いたことには、手は重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていた。7 主が、「手をふところに戻すがよい」と言われたので、ふところに戻し、それから出してみると、元の肌になっていた。8 「たとえ、彼らがあなたを信用せず、最初のしるしが告げることを聞かないとしても、後のしるしが告げることは信じる。9 しかし、この二つのしるしのどちらも信ぜず、またあなたの言うことも聞かないならば、ナイル川の水をくんできて乾いた地面にまくがよい。川からくんできた水は地面で血に変わるであろう。」
  10 それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」11 主は彼に言われた。「一体、誰が人間に口を与えたのか。一体、誰が口を利けないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なるわたしではないか。12 さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」13 モーセは、なおも言った。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」
  14 主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた。
  「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。15 彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。16 彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。17 あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。」


 主は、イスラエルをエジプトから解放する者として、モーセに召しをお与え下さいました。この時、モーセは疑問を持ちます。人々は主の存在を受け入れるはずがなく、どの様にすれば、彼らが主を受け入れ、信じることがなるのか? ヨセフの時代に、主がイスラエルをエジプトに送り出してから400年渡って、主の顕現がなかったのです。従って、イスラエル人は、今のわたしたちの周囲にいる人たちと同じように、神さまがいたとしても昔のことであり、現在はいない。いるのであれば、証拠を見せてみよ、と語るのです。
 主は、三つの奇跡により、人々が主を信じることが出来るようにお示し下さいます。主の奇跡には、主の意図があり、ここでも三つの奇跡がただ並んでいるのではなく、この三つの奇跡から主の意志を確認しなければなりません。
 その第一は杖の奇跡です。杖とは、権力のしるしです。そして蛇とは、@エジプトでは知恵やいやしのシンボルであり、礼拝の対象でした。Aまた天地創造時に、アダムとエバは蛇の誘惑により罪を犯したのであり、サタンを象徴するものです。つまり主は、サタンの象徴である蛇を自由に操り支配する力をもっておられるのです。
 次に重い皮膚病の奇跡です。この病気は、エジプトでも、イスラエルでも忌み嫌われており、罪人とされ日常の生活・信仰共同体から閉め出されたのです(レビ13:45-46)。つまり、この病気を主が癒して下さることは、罪の赦しと共同体の回復を意味しています。
 最後にナイル川の水を血に変える奇跡です。ナイル川は、エジプトの命そのものであり、全ての農作物を潤す水です。このナイル川の水が血に変えられることは、主がファラオ、エジプトの神々を討ち滅ぼし、イスラエルに永遠の生命を約束して下さっているのです。
 つまり主がここで示されているしるしとしての奇跡は、ただ奇跡が三つ行われただけではなく、主なる神さまは、イスラエルをサタンから解放し、罪を赦して神の民として回復し、永遠の生命の約束をお語り下さっているのです。しかし、モーセはこの後も、なぜ自分が召されたのかと、主に対して質問します(10)。これは主の御力を信じていない不信仰から来る言葉です。モーセ自身が、主への全幅の信頼、信用、信仰を持っていないのです。
 現在においても、人々は、主を信じない理由として、しるしがないことを、語ります。しかし、歴史を通して働かれる主の御業に私たちは目を向け、そこにある意味を私たちは知らなければならないのです。主イエス・キリストは、罪のない状態で十字架に架かられ死を遂げられ墓に葬られました。しかし墓に葬られてから三日目の朝に、復活されます。まさしくここで主がモーセに行われた三つの奇跡を通して示しておられる、サタンからの解放、神の民としての回復、永遠の生命が、キリストの十字架と復活・昇天によって示され、私たちにすでに与えられているのです。ですから、旧約の時代のように、別のしるしを私たちが求める必要はないのです。

 主なる神さまは、不信仰なモーセに対して、お答え下さいます(11〜12、14〜17)。主はモーセの不信仰に対して怒りを露わにされます(14)。イスラエルをサタンから解放し、罪を赦して神の民とし、永遠の生命をお与え下さる主なる神さまにとって不可能なことは、何かあるでしょうか? あなたが、今、この場に存在しているのは誰の力が及んでいるのですか? 神の発せられる言葉、神の御支配、神の教え、神の救いは、私たち人間が何も出来ないとしても、何事でも成し遂げる力があります。全ての出来事は、人に由来するものはなく、ただ神からのみ来るのです。
 私たちにとって全て必要なものは、主がお与え下さるのです。ないことに対する不平・不満を語るのは、全てを成し遂げて下さる主に全てを委ねていないからです。全てを成し遂げる力を有しておられる主なる神さまの御声に、私たちは聞き従わなければなりません。
 私たちが、すべてを主に委ねることにおいて、主は、私たちに必要なものをすべてお与え下さるのであり、同時に、人々に対しても、救いの御業をすべてお示し下さり、主による救いを受け入れるものへとお導き下さるのです(参照:Tコリント1:26-31)。
                                            (2006.10.1)
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