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【礼拝説教】  「権威といのちを司られる方」  辻 幸宏牧師

出エジプト記7章8節〜24節

  8 主はモーセとアロンに言われた。9 「もし、ファラオがあなたたちに向かって、『奇跡を行ってみよ』と求めるならば、あなたはアロンに、『杖を取って、ファラオの前に投げよ』と言うと、杖は蛇になる。」10 モーセとアロンはファラオのもとに行き、主の命じられたとおりに行った。アロンが自分の杖をファラオとその家臣たちの前に投げると、杖は蛇になった。11 そこでファラオも賢者や呪術師を召し出した。エジプトの魔術師もまた、秘術を用いて同じことを行った。12 それぞれ自分の杖を投げると、蛇になったが、アロンの杖は彼らの杖をのみ込んだ。13 しかし、ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった。主が仰せになったとおりである。

  14 主はモーセに言われた。「ファラオの心は頑迷で、民を去らせない。15 明朝、ファラオのところへ行きなさい。彼は水辺に下りて来る。あなたは蛇になったあの杖を手に持ち、ナイル川の岸辺に立って、彼を待ち受け、16 彼に言いなさい。ヘブライ人の神、主がわたしをあなたのもとに遣わして、『わたしの民を去らせ、荒れ野でわたしに仕えさせよ』と命じられたのに、あなたは今に至るまで聞き入れない。17 主はこう言われた。『このことによって、あなたは、わたしが主であることを知る』と。見よ、わたしの手にある杖でナイル川の水を打つと、水は血に変わる。18 川の魚は死に、川は悪臭を放つ。エジプト人はナイル川の水を飲むのを嫌がるようになる。」
  19 主は更にモーセに言われた。「アロンに言いなさい。『杖を取り、エジプトの水という水の上、河川、水路、池、水たまりの上に手を伸ばし、血に変えなさい』と。エジプトの国中、木や石までも血に浸るであろう。」
  20 モーセとアロンは、主の命じられたとおりにした。彼は杖を振り上げて、ファラオとその家臣の前でナイル川の水を打った。川の水はことごとく血に変わり、21 川の魚は死に、川は悪臭を放ち、エジプト人はナイル川の水を飲めなくなった。こうして、エジプトの国中が血に浸った。22 ところが、エジプトの魔術師も秘術を用いて同じことを行ったのでファラオの心はかたくなになり、二人の言うことを聞かなかった。主が仰せになったとおりである。23 ファラオは王宮に引き返し、このことをも心に留めなかった。24 エジプト人は皆、飲み水を求めて、ナイル川の周りを掘った。ナイルの水が飲めなくなったからである。



 神さまを信じない人たちの中に、「証拠を示せ」「奇跡を見たら信じる」と語られる方もいます。しかしそういう人たちは、キリストの姿、主の奇跡を見たとしても、神の存在を受け入れることは出来ず、心を頑なにするのです。今日与えられた御言葉には、奇跡を見ながら心を頑なにしていくファラオの姿が描かれていきます。
 ファラオの前に立つモーセはすでに80歳です(7:7)。モーセの生涯は120年であり、老人に域に入っています。聖書はこの時のファラオの年齢を記しませんが、一般的に言って、ファラオにとってモーセは、「老いぼれ」に過ぎません。そしてファラオは、「自分こそが王であり、全ての権力を持っている。誰の声も聞く必要はない」とも思っていました。ましてや老いぼれの言うことです。だからこそモーセに対しても、奇跡をやれるならやってみよとの思いがあるのです。そこでモーセは主の命じられるまま、奇跡を行います(8-11)。
 「杖」とは神の怒りを表す時にも用いられ、罪の故に人を懲らしめる時に使われます(サム下7:14、ヨブ21:9、イザ10:5、30:31)。そして再臨された主イエスは、「鉄の杖」をもって全世界の民を治められます(詩2:9、黙2:27、12:5、19:15)。また羊の数を数える時にも使われ(レビ27:32)、神が選民を数える時にも使われます(エゼ20:37、黙21:15-16)。つまり「杖」は、聖書では一貫して権威の象徴しているのです。一方「蛇」は、創世記の最初にエバをだまして善悪の知識の木から木の実を食べさせますが、サタンを象徴する動物です。従って、主なる神さまが、杖を蛇にすることが出来、またそれを自由に操ることが出来ることは、主がサタンをも支配しておられる権威者であることを語っています。しかしこの奇跡を、エジプトの魔術師も同じ事を行います。このことに関し、当時は同じことを行う力が彼らにはあったのか、何かのトリックを用いたのか、分かりません。しかしここで重要なことは、アロンの杖がエジプト人の杖をのみ込んだことです(12)。つまり主の御力が、いかなる人間の業に勝るものであることを、ここで語るのです。
 しかし、「神のしるしとしての奇跡を見せよ」と語るファラオは、奇跡を信じて神を受け入れることはなく、心を頑なにします。心の中に罪のある人間は、奇跡を示されようが、神を信じることはなく、真の救いに導かれる者は、この様な奇跡を直接見ることがなくとも、主が語られる御言葉を受け入れ、信じることが出来る者とされるのです。
 そして主はモーセを通して10の奇跡をファラオに示し、主の御力を示していきます。最初の奇跡が血の災いです。「水」とは清めの意味があり、教会でも洗礼式の時、水をしるしとして用いますが、罪を洗い清めることを意味します。特に、エジプトにおいてのナイル川は、全ての生命の源です。全ての水をナイルから得ているわけで、飲み水だけではなく、農作地、家畜にも全てが水が必要です。その川を血に染めるのです。ですから、それはエジプトの全ての命を奪うことを意味しています。つまり、主は全ての命を奪うことも出来るお方であることを、この奇跡を通してファラオに示します。全世界を血に染めることが出来るお方は主お一人であり、この方が全ての命の源です。このお方がお許しにならない限り、今に生きる私たちも、今日の命も保証されません。このことをお示しになるために、最初の奇跡として、血の災いを主は行われたのです。
 しかしファラオはさらに心を頑なにします。人の頑なさは、自分が全てであり、他の者からの何一つ聞こうとも見ようともしないからです。人を見下しているからです(参照:マタイ13:14-15)。多くの人々はこの頑なさの中に生きており、いくら主の御言葉が届けられても、主の奇跡がもたらされても、受け入れられず、信じることも出来ないのです。
 しかし今日の御言葉において示された奇跡が語るように、今も生きて働く主なる神さまは、全ての権威をもっておられ、すべての被造物、すべての人間の命を治めておられます。だからこそ、心を頑なにして、永遠の死、永遠の死に向かうのではなく、主を受け入れ、主に従い、罪の赦しと永遠の生命の約束に繋がることが求められているのです。そして主の御言葉に聞き従う者は、同時に、遜り謙遜となり、人の話しを聞き、受け入れる広がりを持つ者へとされていくのです。
                                            (2006.11.12)
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