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【礼拝説教】  「神の恩恵と裁き」  辻 幸宏牧師

出エジプト記8章16節〜28節

  16 主はモーセに言われた。「明朝早く起きて、水辺に下りて来るファラオを出迎えて、彼に言いなさい。主はこう言われた。『わたしの民を去らせ、わたしに仕えさせよ。17 もしあなたがわたしの民を去らせないならば、見よ、わたしはあなたとあなたの家臣とあなたの民とあなたの家にあぶを送る。エジプトの人家にも人が働いている畑地にもあぶが満ちるであろう。18 しかし、その日、わたしはわたしの民の住むゴシェン地方を区別し、そこにあぶを入り込ませない。あなたはこうして、主なるわたしがこの地のただ中にいることを知るようになる。19 わたしは、わたしの民をあなたの民から区別して贖う。明日、このしるしが起こる』と。」20 主がそのとおり行われたので、あぶの大群がファラオの王宮や家臣の家に入り、エジプトの全土に及んだ。国はあぶのゆえに荒れ果てた。21 ファラオがモーセとアロンを呼び寄せて、「行って、あなたたちの神にこの国の中で犠牲をささげるがよい」と言うと、22 モーセは答えた。「そうすることはできません。我々の神、主にささげる犠牲は、エジプト人のいとうものです。もし、彼らの前でエジプト人のいとうものをささげれば、我々を石で打ち殺すのではありませんか。23 我々の神、主に犠牲をささげるには、神が命じられたように、三日の道のりを荒れ野に入らねばなりません。」24 ファラオが、「よし、わたしはあなたたちを去らせる。荒れ野であなたたちの神、主に犠牲をささげるがよい。ただし、あまり遠くへ行ってはならない。わたしのためにも祈願してくれ」と言うと、25 モーセは答えた。「では、あなたのもとから退出しましたら、早速主に祈願しましょう。明日になれば、あぶはファラオとその家臣と民の間から飛び去るでしょう。ただ、二度と、主に犠牲をささげるために民を去らせないなどと言って、我々を欺かないでください。」
  26 モーセはファラオのもとから退出すると、主に祈願した。27 主はモーセの願いどおりにされ、あぶはファラオと家臣と民の間からすべて飛び去り、一匹も残らなかった。28 しかし、ファラオは今度もまた心を頑迷にして民を去らせなかった。


 主がエジプトにもたらす10の奇跡の内、最後の奇跡を除く9つは3つのサイクルに分けられます。そして第4の奇跡から第二サイクルとなります。第一サイクルでは、主なる神さまの御力が強く示され、偶像が無力であることが示されました。第二サイクルでは、主権者なる主に逆らうことによる裁きと、イスラエルの主による一方的な救いが語られます。
 ところで、第四の奇跡「あぶの災い」に関しては、第三の奇跡で出てきますぶよとも似通っているかと思います。ただ、ここで出てきますあぶは、マラリアを伝染させると言われており、恐れられていたのです。聖書では、敵の軍隊が攻めてくる様子を、あぶに例えて語るのです(エレミヤ書46:13,19-21)。
 つまりこの奇跡を通して主は、主の軍勢がエジプトに襲いかかり、エジプトを滅ぼすと言われているのです。主に従わない、主に逆らい、心を頑なにすること、それは、主の軍勢によって攻められ、攻撃され、滅ぼされるのです。ですから、ファラオは主から逃げ続けるか、主に向き直って罪を悔い改め主を信じるかのどちらであるか問われているのです。
 しかしファラオの取った行動は中途半端でした。ファラオがモーセを呼び寄せ、「行って、あなたたちの神にこの国の中で犠牲をささげるがよい」(21)と語ります。ファラオは、イスラエルをなおも自分の手元に置いておき、自分の権力の支配の下に置いておきたいのです。これは主の命令とは明らかに異なります。「この国の中で犠牲をささげるがよい」とは、エジプトにあって神聖視されていた牛や羊が生け贄に献げられることであり、エジプトにとっては屈辱的で受け入れられません。そのためモーセは否と語るのです(22)。
 次にファラオは妥協して、イスラエルを荒れ野に解放すると語りますが、自分のためにも祈るようと要求します(24節)。自分の権力を失いたくない、なおも権力を維持したいのです。こうした中途半端・妥協した行動を、キリスト者はとってはなりません。主を信じるとは、主に全てを委ねることであり、主の御言葉に全面的に従うことなのです。
 中途半端な信仰・妥協した信仰は、艱難が過ぎ去れば、信仰も失われます。ファラオがそうなのであり、場当たり的になります。私たちが考えなければならないことは、なぜ、主がこの様な奇跡を行われたのかです。あぶの襲来こそ、主の裁きを予見するものです。ですから、主はすぐさま、エジプトを裁くのではなく、エジプトが、そしてファラオが悔い改め、主に立ち帰るための猶予をお与え下さっているのです。このことは現在語られている御言葉の説教も、全く同様です。救いが語られている裏には、主の裁きがあるわけであり、悔い改め、主に立ち帰ることを、主は待っておられるのです。

 一方、第一サイクルとは異なったことが語られています。それはイスラエルを区別することです。「わたしは、わたしの民をあなたの民から区別して贖う」(19)。「区別して贖う」とは、「聖別」と語ってよいでしょう。
 つまり、頑なに主の御前で罪を繰り返すエジプトと、イスラエルとを主は分けられるのです。そして「贖う」とは「買い戻す」「救う」ことです。エジプト同様罪人であり、神との断絶の故に、死に定められていたイスラエルを、主が買い戻して下さり、神の子、救いにあずかる者として下さることを、約束して下さっているのです。
 主によって贖われた民は、主によって永遠の契約が与えられるのです。永遠に続く讃美、天国における祝福が、主によって贖われ神の子とされることにより与えられるのです。そして、この贖いの御業を私たちにもたらして下さったのは、御子イエス・キリストです。イスラエルにしても、私たちにしても、このままの状態で、主に買い取られることは出来ないのです。主は聖・義・真実なお方であり、私たち罪を有している人間を買い取ることは出来ないのです。だからこそ、御子が仲保者になって下さり、私たちの罪を償って下さったのです。キリストの十字架の苦しみ、十字架における死こそ、本来、私たちが、主による刑罰として果たさなければならなかった刑罰です。この刑罰を御子が代わりに支払って下さった。だからこそ、私たちは、信じることにより義と認められ、神の子として主に贖われることが可能となったのです(参照:ローマ書3:21-26)。

                                            (2006.11.26)
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