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【礼拝説教】  「頑ななファラオ」  辻 幸宏牧師

出エジプト記10章21節〜27節

  21 主はモーセに言われた。「手を天に向かって差し伸べ、エジプトの地に闇を臨ませ、人がそれを手に感じるほどにしなさい。」22 モーセが手を天に向かって差し伸べると、三日間エジプト全土に暗闇が臨んだ。23 人々は、三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立ち上がることもできなかったが、イスラエルの人々が住んでいる所にはどこでも光があった。24 ファラオがモーセを呼び寄せて、「行って、主に仕えるがよい。ただし、羊と牛は残しておけ。妻子は連れて行ってもよい」と言うと、25 モーセは答えた。「いいえ。あなた御自身からも、いけにえと焼き尽くす献げ物をいただいて、我々の神、主にささげたいと思っています。26 我々の家畜も連れて行き、ひづめ一つ残さないでしょう。我々の神、主に仕えるためにその中から選ばねばなりません。そこに着くまでは、我々自身どれをもって主に仕えるべきか、分からないのですから。」27 しかし、主がまたファラオの心をかたくなにされたので、ファラオは彼らを去らせようとはしなかった。28 ファラオが、「引き下がれ。二度とわたしの前に姿を見せないよう気をつけよ。今度会ったら、生かしてはおかない」と言うと、29 モーセは答えた。「よくぞ仰せになりました。二度とお会いしようとは思いません。」



 8番目の奇跡において、家臣がファラオに対してモーセに従うように進言し(10:7)、ファラオもモーセに譲歩をしようとしていますが(10)、その心の頑なさは無くなっていません。しかしファラオの姿は私たちの姿そのものなのです。私たちは現状に甘んじていてはならないことが示され、変化が求められている時に、変化しようと考えつつも、頑なな思いがあり、それを失いたくない思いが強いのです。そのため譲歩はしつつも、主なる神さまの語られることに全て従うことは出来ないのです。
 そして、主は最後の災いを前に、第9の災い(暗闇の災い)をエジプトにもたらされます。この暗闇は、主の最後の審判を前に、私たちの姿を映し出しているのです(参照:マタイ24:29)。ここでは考える発想を変えて頂こうと思います。真っ暗な闇の中にあって、イスラエルの滞在しているゴシェンの地域のみに光があたっているのです。つまり暗闇の災いがエジプトにもたらされているのですが、同時に主なる神さまによってイスラエルに光が与えられているのです。つまりこの第9の奇跡により、私たちは本来、闇の中=罪の中にいることに気付かなければならないのです。しかし私たちは、この闇を忘れているのです。大垣でも、この辺りは明かりが少ないのですが、それでも真夜中でも、道路の明かりは点いていますし、何軒かの家の電気は点いたままです。そして現在社会において、私たちは、光一つもない状態を全くと言って良い程体験しなくなっているのです。
 神戸において、クリスマス・イルミネーションのルミナリオが始まったのは1995年です。つまり1月17日に阪神大震災が発生した年です。その時の闇の姿を覚えつつ、復興の思いで始まったのです。12年という年月は、その闇を忘れ去らてしまったかのようです。しかし、あの1月17日の夜、それまで100万ドルと呼ばれた神戸の町が真っ暗だったのです。私も経験しました。電気もガスも断たれ、市街は真っ暗でした。その中、地震の余震におびえ、ヘリコプターの爆音と救急車のサイレンの恐怖を、今も忘れることは出来ません。
 私たちは、この闇の恐怖を知らずに、光があることが当然の生活を送っているのです。それは裏返せば、文明の発達により人間には不可能なことはない、何不自由なく暮らすことを自らの手で勝ち取ったおごりの姿でもあります。これこそが私たちの闇の姿です。
 そして主は、エジプトを闇で覆い、同時にイスラエルに光をお与え下さいます。この光は、前日まであった光と同じ光のようです。しかし、闇を知る者は、この光が主によって与えられていることを知っているのです。そうです。主は、闇(罪)の世の中を歩んでいる私たちに対して、救いという光を一方的にお与え下さったのです。
 そして、この主が私たちにお与え下さった光こそ、救い主イエス・キリストです(参照:ヨハネ福音書1:1-5)。闇を照らす光がキリストによって与えられたのです。ロゴス(言葉)である御子は私たちに旧新約の御言葉をお与え下さり、主にこそ救いがあることをお語り下さいます。光であるキリストが、私たちを救い出すために十字架にお架かり下さった時、昼の12時頃から主イエスが息を引き取る直前の午後3時まで(参照:ルカ23:44)、全地は暗くなり闇が覆います。キリストが十字架に架かり、闇が勝利を治めるように見えるからです。しかし主イエスが十字架の死を遂げる時、光が戻ります。キリストの死、それは敗北ではなく、罪・死に対して私たちに勝利がもたらされた瞬間なのです。私たちはこの後、聖餐式に与ります。聖餐式でパンを食し杯に与りますが、キリストの裂かれた体こそ、このパンによってしるしとされているものであり、キリストの流された血こそ、杯に盛られたぶどう酒なのです。私たちは、キリストのサタンに対する勝利と私たちに与えらる罪の赦しと救いを覚えて聖餐式に与るのです。このキリストの勝利は、キリストの死から三日目の朝に復活を遂げられ、甦りになることにより、より明らかになります。
 主は、闇の中に歩む私たちに一方的に罪の赦しと救いをお与え下さいます。そうなれば、私たちはファラオのように、条件付きで主の御言葉に聞き従うので良いでしょうか?そうではないのです。主の御前に妥協は許されません。主が私たちに求めておられることは、主が御言葉を通してお語り下さることをすべて受け入れ、主の御言葉に聞き従うことです。

                                            (2007.1.7)
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