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【礼拝説教】  「天からの食べ物」  辻 幸宏牧師

出エジプト記16章1〜36節


 今日は、有名なマナの話しです。新共同訳聖書になり、旧約では「マナ」のままですが、新約(ヨハネ6:31,49、ヘブル9:4、黙示録2:17)では「マンナ」になっています。注意していただきたいと思います。

T.不平を語るイスラエル
 さて、主による力ある業により、エジプトから救い出されたイスラエルの民は、約束の地カナンに向けての歩みを始めました。喜びと希望に満ちていたのです。それが15章の海の歌に表れています。この気持ちは嘘ではなかったでしょう。しかし、水が得られない不満を語り、さらに食事に対する不満を口にします。不満は、水・食料だけではありません。荒れ野をさまよい、どこへ連れて行かれるのかという不安もあったのです。喜び以上の不安と不満が渦巻いていたのです。
 しかし、彼らの不平に対して、主はすぐさま聞き届けて下さいます。それは主が生きて働き、イスラエルと共にいて下さるからです。主は、イスラエルの民に、毎日、夕にはうずらを、朝にはマナを与える約束をして下さいます。

U.主の養いに与る民
 この有名なマナの記事を読むにあたり、私たちが注目しなければならないことは、主の恵みの継続性です。マナは約束の地カナンに入るまでの40年間継続的に与えられました。それ以上に、主の恵みは、天地万物から神の国の完成にいたる全歴史における継続性があるのです。つまり、主はイスラエルを救って下さいました。主の救いの御業は一回的な御業です。しかしそれで主の御業が終わったわけではないのです。主が救って下さった民は、主によって守られ、神の国に導かれるまで、主の加護・主の恵みの下にあるのです。
 このことは、人が神さまによって創造された時にすでに定められていたのです。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。」(創1:29)人は主の養いによって恵みが与えられ続けるのです。人が罪を犯すことにより、人は食べ物をえるために苦しむものとなり(創3:17)、人は、食べ物を得るために、働き、労苦することが求められます。そして、主によって救われたキリスト者であっても、労働することが求められます。
 では、出エジプトのイスラエルの民が、救われたと同時に、日々の糧も主が全てを準備して下さったことは、何を意味しているのでしょうか。主は常にイスラエルと共にいて下さいます。そしてその生活の全てをご存じです。その苦しみ、悲しみも知っておられます。だからこそ、その苦しみ・悲しみを自分一人で解決する必要はないのです。主が解決して下さいます。主が養って下さいます。そのために主を信じて、主に全てを委ね、主に祈り求めることが、神の民に求められているのです。それは何もしなくても良いというのではなく、何をすれば良いのか、主が導いて下さるのであり、そのために主に祈り、主に委ねることが求められているのです(参照:主の祈り「日用の糧を今日もお与え下さい」)。
 出エジプトのイスラエルの民に、うずらとマナが与え続けられたことは、主によって救われた民が、主に委ね続けることの必要を教えているのです。今日のマナは今日与えられるのであって、明日与えられるのです。主を信じることを教えています。
 また、主を信じ、主の養いを信じることは、神の国における神の養いをも信じることに繋がります。主は神の国では、キリスト者は朽ちないマナと白い小石(神の民としての名が記されている)が与えられます(黙2:17)。死からの復活によって与えられる永遠の生命は、朽ちないマナを信じることでもあります。

V.安息日の規定
 さて、出エジプト記におけるマナの記事には、もう一つ重要なことが語られていきます。それは、安息日の規定です。つまり、主がマナをもってイスラエルの民を養い続けて下さることは、イスラエルの民が主の安息日を守り、主を礼拝することとしっかりと結びついているのです。主の養いに対する感謝の応答としての神礼拝です。主による養いに対する感謝と喜びをもって、主を賛美し、礼拝する者へと促されているのです。ここに礼拝が繰り返される目的があるのであり、日々の養いの感謝が、改めて、救いの感謝へと繋がるのです。


                                     (2007.4.15)
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