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【礼拝説教】    辻 幸宏牧師
「奴隷についての約束」 出エジプト記21章1〜11節

出エジプト記21章1〜11節

◆(2)奴隷について
  1 以下は、あなたが彼らに示すべき法である。2 あなたがヘブライ人である奴隷を買うならば、彼は六年間奴隷として働かねばならないが、七年目には無償で自由の身となることができる。3 もし、彼が独身で来た場合は、独身で去らねばならない。もし、彼が妻帯者であった場合は、その妻も共に去ることができる。4 もし、主人が彼に妻を与えて、その妻が彼との間に息子あるいは娘を産んだ場合は、その妻と子供は主人に属し、彼は独身で去らねばならない。5 もし、その奴隷が、「わたしは主人と妻子とを愛しており、自由の身になる意志はありません」と明言する場合は、6 主人は彼を神のもとに連れて行く。入り口もしくは入り口の柱のところに連れて行き、彼の耳を錐で刺し通すならば、彼を生涯、奴隷とすることができる。7 人が自分の娘を女奴隷として売るならば、彼女は、男奴隷が去るときと同じように去ることはできない。8 もし、主人が彼女を一度自分のものと定めながら、気に入らなくなった場合は、彼女が買い戻されることを許さねばならない。彼は彼女を裏切ったのだから、外国人に売る権利はない。9 もし、彼女を自分の息子のものと定めた場合は、自分の娘と同じように扱わなければならない。10 もし、彼が別の女をめとった場合も、彼女から食事、衣服、夫婦の交わりを減らしてはならない。11 もし、彼がこの三つの事柄を実行しない場合は、彼女は金を支払わずに無償で去ることができる。



T.聖書の読み方
 出エジプト記では20章において、主からモーセに対して十戒が与えられ、そして20:22以降に、「契約の書」と題して各論が展開されていきます。21章に語られていることは、奴隷についてです。聖書を読む時は常に、聖書で語られている言葉を、歴史的・民族的背景を無視して、今の私たちの生活に即、あてはめて読んではなりません。つまり「聖書は奴隷制度に賛成している」と読み取ってはなりません。聖書の時代、奴隷制度があることが前提です。そのため奴隷制度がある中にあって、主なる神さまはどの様な立場に奴隷に対して対処されようとされているのかということを読み取らなければなりません。
 そして聖書を読み解く基本にあるのは十戒であり、二つの要約(参照:マタイ22:37-40)「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』、『隣人を自分のように愛しなさい』」です。主イエスは、善きサマリア人の譬え(ルカ10:30〜37)において、隣人とは誰であるかを問うておられます。同胞だけ、自由人だけが隣人ではありません。異邦人・外国人であっても、身分の低い人々、罪に定められた人々、奴隷、病人、死に瀕した人であっても、主はあなたの隣人であるとお語りになっているのです。
 つまり、今日お読みしました奴隷制度について記されている律法に関しても、教会が奴隷制度を推進している立場に立つのではなく、奴隷制度がある社会の中にあって、教会の立場は、奴隷を認めるにしても、奴隷に対しても隣人として取り扱うことが求められるたちばであることを考慮しつつ、与えられた御言葉に聞かなければなりません。

U.奴隷に対する神の愛
 聖書の時代、奴隷が売買されることが許されていました。戦争捕虜ばかりか、売買されていたのです。親が子どもを売り飛ばすこともありました。しかし聖書は、その奴隷に対しても隣人としての愛をもって接するように求めます。第一に挙げられることは、安息日の厳守です。20:8〜11において第四戒の戒めが教えられていますが、男女の奴隷も安息日を厳守し休むことが求められます。つまり奴隷だからといって、安息日にも働くことを強制することは許されず、奴隷も一緒に休み、主を礼拝する日でなければならないのです。
 また、奴隷に迎えて七年目には、その奴隷を無償で自由の身としなければなりません。更にレビ記においては、バベル(50年目)の年が来れば、その奴隷が何年目であったとしても、解放しなければならないことも記されています(レビ25:54)。
 またここでは妻帯者に関して語られます。結婚していた者が奴隷となった場合は、妻は夫に繋がっているのであり、夫が奴隷から解放されれば、同時に妻も解放されるのです。一方、独身の者に主人によって妻が与えられた場合、妻と生まれてくる子供は主人に属するのです。そのため、妻や子どもと一緒に解放されるためには、身代金が要求されます。そうでなければ、一人で去っていくか、主人の元に留まる誓いを立てなければなりません。つまりイスラエルにあっては、他の社会ではあり得ないことですが、恒久的に奴隷であることは、通常認めていないのです。一人の人間としての人権が回復され、神の民としての交わりにいることを覚えることが出来るのです。

V.女奴隷に対する場合
 一方、女奴隷に対しては別の対応が求められています。男尊女卑に関して、聖書が女性蔑視を語っていると思う方もおられるでしょうが、奴隷制度と同じように時代的背景を確認しつつ読み取らなければなりません。女奴隷の場合、主人の妻、めかけ、息子の嫁に迎え入れられることも多々あったのです。そして女奴隷を家族に迎え入れる場合、通常の結婚関係と同じように、女性を家族の一員として受け入れるように求めるのです。つまり奴隷だからといって、差別したり勝手に別れるようなことを、聖書は許さないのです。
 いずれにしましても、旧約の時代、どこの国においても奴隷が存在しており、聖書はそれ自体を否定することは致しません。新約聖書の時代になっても同じです。しかし、奴隷とされる人に対しても、隣人として接すること、またそれなりの対応をすることを求めているのです。私たちに求められていることは、現代に生きる私たちがどの様に対応すべきかです。隣人を愛するのであり、現代的に奴隷を認めることは出来ません。それと同時に、雇用関係にある者に対しても、労働者に対する人権を尊重する立場でなければならないでしょう。労使関係は、奴隷という言葉が使われないだけで、実質同じような立場にある人たちもあるのです。そうしたことに教会は理解を示し、改善に務めなければなりません。

                                     (2009.12.27)
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