【礼拝説教】  「命の息」  辻 幸宏牧師



  創世記2章4〜9節(新共同訳聖書)

2:4 これが天地創造の由来である。主なる神が地と天を造られたとき、
2:5 地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかった
   からである。また土を耕す人もいなかった。
2:6 しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。
2:7 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこう
   して生きる者となった。
2:8 主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。
2:9 主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また
   園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。



 20世紀以降、聖書批評学という学問が盛んに行われました。つまり聖書も一つの書物として、文法・構造解析を行っていく研究です。確かに聖書を私たちが読んでいく上では、大切な作業の一つです。しかし、神様がお与え下さった神の御言葉である聖書を、人間の書いた書物と同じ位置に置いて、人間的に解釈することに危険が伴います。そしてこの家九の結果、1章と2章とは矛盾あり、別人が書いた文書であると語ります。
 聖書は、私たち人間が神様を信じるために必要なことが記されている、神の御言葉です。従って、聖書は科学の教科書ではなく、天地創造でもその中心は人間の創造にあるのです。ですから創世記1章と2章の関係を語ります時も、1章においては主なる神様が天地万物を創造されたお方であることが中心的に記されているのであり、一方2章では、主が救いに導いて下さる私たち人間とはいかなる存在であるかが、語られているのです。ですから、表記の仕方が変化し、微妙な食い違いがあるからと言って、目くじらを立てるのではなく、主が私たちに何をお語り下さろうとしているのかを確認しなければなりません。
 「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくられた」(7)。これが人間の姿です。私たちは、人が死に葬られる時に、このことを確認します。人が死に火葬されますと、骨のみが残ります。さらに焼き続ければ、骨も尽きます。一方土葬でも、何年も経てば体は腐食して朽ちていきます。こうして、人間は土に帰っていくのです。しかし聖書の書かれたヘブライ語であれば、言葉からしてそのことを語るのです。「土」は「アダマア」であり、「人」は「アダム」です。人が土から派生した存在であることが、示されています。
 とろこが主なる神様は、土の塵から作られた人間のその鼻に命の息を吹き入れられます。ここでの命の息とはただ息をして生きている者とされたのではありません。「彼らに生きた、理性ある、不死の魂を授けられた」(ウェストミンスター大教理問答17)のです。この教理問答の証拠聖句を併せて挙げておきます。コヘレト12:7 塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。マタイ10:28 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。ルカ23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。つまり命の息とは、霊であり魂であり、これは永遠に滅びることのないものなのです。
 ところで、人が土の塵で作られ、神の息吹が吹き入れられたことから、人は神の器であると言われます(参照:ローマ9:21〜24)。憐れみの器として作られた人間が、神様によって呼び集められ、神様を信じるようにされたのです。私たちは神の器です。器ですから何かが盛られるのです。何が盛られるのか?命の息、つまり神様の魂、神様の御言葉が蓄えられ、神様の栄光を称えることが求められているのです。これが人間の生きる目的です。
 しかし今生きる私たちは、神様が人を創造して下さった時の状態を失っています。つまり、罪を持ち、神の器でありながら、それを求めることが出来ないのです。そして死を避けて通ることが出来ないのです。それは、土の器に、生きるために必要な神の御言葉、つまり命の息を蓄えないからです。栄養をとらなければ、生きていくことは出来ないのです。
 だからこそ、私たちは生きるために、神様が創造して下さった時の恵みと祝福に満たされ、永遠に生きるために、命の息としての神の御言葉を蓄えなければなりません。
 私たちは忘れてはなりません。私たちは、土の塵で作られた土の器にすぎないのです。自らの力で救いを求め、生きていくことは出来ません。創造主なる神様に、人は成り代わることはできません。しかし、なおも神の御言葉を聴き、神様を受け入れ、信じる事により、再び永遠の生命に与るものとされたのです。そして、三位一体の神様にかたどり、神様に似た体を持つ者として、永遠の生命を持つ者と、私たちはされているのです。

                                              (2004.11.7)



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