【礼拝説教】  「罪の故に−殺人」  辻 幸宏牧師



  創世記4章1〜26節(新共同訳聖書)

 待降節を迎え私たちが忘れてはならないことは、神の御子イエス・キリストが地上に宿って下さる理由となりました私たち自身の罪です。今朝とりあげます創世記4章では、最初のアダムとエバの罪が、いかに広まっていったかが示されています。
 アダムとエバは、最初の罪の後、死ぬものと定められ、さらにエデンの園から追い出され、収穫を得るために苦しみが伴うものとされたのです。そしてこの苦しみと罪と罪の刑罰としての死も、アダムとエバから生まれる全ての人に受け継がれて来ています。「そんなこと知らない」と思われると思います。しかしアダムとエバは天地創造の時、主なる神様は彼らを生きる者として創造されたのですが、彼らの罪により、人が持ち込まれ、現に私たちも肉体の死を免れることは出来ないのです。この事実から目を背けてはなりません。
 アダムとエバは子供を授かり「カイン」と名付けます。これは「私は得た」という意味です。罪の故に死ぬ者となったにも関わらず、神様の恵みを感謝して名付けたことでしょう。一方、次に生まれた弟には「アベル」と名付けます。「息、蒸気、空しさ」を意味します。子供が与えられる祝福にありながらも、死を迎えようとする人生に対する空しさを、すでに感じ取っていたのです。
 罪が入ってきても、神様はおられ、創造主・救済主として礼拝することが求められます。彼らも主に献げ物をささげることにより礼拝を行いました。しかし罪という深い雲が、太陽である神様を遮り、直接神様を見上げることが出来なくなったため、人は、神様を離れ、礼拝や献げ物が求められても、形だけになって行きます。この時、主は、彼らが礼拝を行うかどうかではなく、その心=信仰を見ておられます。「カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。」(3)「また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た」(4,新改訳)。アベルの礼拝行為は、すでに贖罪と和解に対する感謝が、ここに表れていると言って良いかと思います(参照:ヘブライ11:4)。ここで私たちに礼拝に臨むにあたっての信仰が問いかけられています。礼拝に出席することが大切なのではなく、礼拝に出席し、生きて働く主への信仰を告白し救いにある感謝と喜びがあるかが問われているのです。
 つまりカインは形では礼拝し、心は神様から離れていたのです。そればかりか、カインは主から献げ物を目に留められることなく、激しく怒ります。自分の行為を顧みることなく、他人を当たり、傷つけ、殺人にまで発展します。罪は際限なく広がるのです。たとえ小さな罪であったとしても、悔い改めることがなければ、次々と大きな罪を行うのです。
 しかし主はカインを責め立てることをせず、自らの罪を理解させ、悔い改めを迫ります。そのためにはすぐに罪を責め立てることなく、忍耐が必要です。主なる神様は放蕩息子(ルカ15章)においても、放蕩する弟、共にいつつも恵みを理解しない兄の罪の自覚と悔い改めをずっと耐えて待っていて下さいました。ここでも弟がいない事実を理解させ(9)、そこにある死の恐怖を確認し(10)、自分のした行為の重大さを気付かせようとなさいます。そしてカインは、「わたしの罪は重すぎておいきれません」(13)と告白するに至ります。
 さらに主は、カインを呪われたままにされることなく、カインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付け守って下さいました(15)。弟を殺した事実は消すことが出来ませんが、主は彼の罪の悔い改めを受け入れて下さいます。そしてさらに子孫を残すことまで許されます(17節以降)。これは主の恵みがあることを示しています。
 罪は果てしなく広がっていきます。カインの子孫を見ても、メレクは二人の妻をめとります(19)。これは姦淫の罪の故です。さらにトバル・カインは、青銅や鉄でさまざまな道具を作り始めます(22)。ここから人を殺す武器が作られていきます。しかし主はなおも彼らの罪を赦そうと手を差しのばして下さいます。「カインのための復讐が七倍なら、メレクのためには七十七倍」(24)。主は罪を犯す人をなおも愛して下さり、罪を赦して下さいます。御子イエス・キリストが、人となられ、地上での遜りの生涯、そして十字架の死を、遂げて下さったのは、まさしく主の愛のしるしです。罪の中にありながらも、罪の赦しが与えられ、救いと永遠の生命の約束が与えられていますことを心から感謝して、喜びをもって歩み続けましょう。



                                              (2004.12.5)
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