【礼拝説教】  「主の優しさ」  辻 幸宏牧師

創世記8章

 先週は大垣でも雪が降り、生活に支障をきたし、自然の偉大さを改めて示されたことと思います。ところで、ノアの時代に起こった洪水は、四十日四十夜雨が降り続きました。ノアの家族と箱船に乗っていた獣や家畜を除く、全てが洪水によって滅ぼされました。それは主を忘れ、自らの思いに従って生きる人間の罪の故の主の裁きです。しかし同時に、主は、ノアと家族と動物たちを助けます。罪人を裁く主なる神様は、同時に、主が選ばれた人たちや他の被造物を、一方的に助け出し、御心に留めて下さるお方でもあります。これは主なる神様の一方的な主権によってなされる恵みに御業です。そして、今、主の御前に集められている私たち一人一人も、その主の御心に留められ、救いに入れられる者とされ、主はさらにこの地域にも多くの人たちを召して下さろうと、働いて下さるのです。
 ところで、主の御心に留められたノアたちは、箱船の中で留まっています。雨が降り始めてから丸一年間です(7:10,8:14)。ノアたちに取りまして、最初の頃は、他の人々が滅ぼされたことに対する悲しみもあったことでしょう。しかしこの一年という期間、今、主が生かして下さっていることを実感するのに十分な期間であったことでしょう。だからこそ主が箱舟から出るように命じられ(15-16)、ノアたちが箱舟から降りると、彼は最初に主を礼拝したのです(20)。つまりノアは、一年間、箱舟の中に家族だけで過ごすことにより、主が創造主であり人間は被造物に過ぎないこと、人間は罪人であり、その罪を贖い救いに導いて下さるのは主なる神様しかいないことが示されていったのです。
 私たちは、週の初めの日に、主の御前に集められ、主に礼拝を献げておりますが、主が今日も私たちを生かして下さっている、救って下さっている、すべての必要を満たして下さっているという感謝と喜びをもって、主を礼拝することが求められているのです。私たちの礼拝は、御言葉とその解き証しの説教、讃美、聖礼典、祈祷によって行うのです。
 御言葉の説教は、主の救いを御言葉によって示され、また確認することです。讃美は主に対して献げられることが求められているのですね。祈祷、これは私たちは主なる神様と霊的な交わりにありますが、聖霊を通して神様との会話であり、私たちは主の栄光を称え、救いにあること・日々の必要を感謝し、罪を悔い改め、さらに私たち自身の必要を求めることが許されています。
 そしてさらにこの後、聖礼典の一つ、聖餐式が行われます。ノアの時代、そして旧約の時代の祭壇における献げ物に代わるものです。私たちが旧約の時代のように、動物の献げ物が求められないのは、すでに私たちの全ての罪の贖いが、御子イエス・キリストの十字架によってなされ、私たちの罪は、キリストの十字架の裂かれた体と流された血によって成し遂げられたから、動物によって繰り返し行う必要はないのです。ですから、聖餐式では、聖餐に与る人たちは、主による救いが、キリストの十字架によって与えられたことを覚えつつ、パンとぶどう酒に与って頂きたいのです。そして同時に、まだ信仰を告白していない人たちは、聖餐に与ることが出来ないのですが、あなたも主の救いに招かれているのであり、信仰を告白することにより、共にこの食卓に招かれるものとされることを覚えて頂きたいのです。
 また、私たちの礼拝では献金を献げます。これは礼拝を献げたことに対する感謝としてなされるのではなく、救われたことに対する、そして日々の必要が満たされていることに対する感謝のしるしとしてなされるのです。ですから、教会によっては、あえて礼拝の最初に行う教会もありますし、また逆に説教の後、報告を先に語った後に、それらのことを踏まえて献金が献げられる教会もあります。ですから、件銀後の感謝の祈りも、礼拝への感謝も必要なのですが、それ以上に救いにある感謝、救いを求めている人、苦しみの中助けを求めている人たちを覚えて主の御手が示されますよう、教会の必要が満たされますよう、お祈りして頂きたいのです。
 さてノアが主の御前で礼拝したことにより、主は語られます。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」(21)。この言葉は、恵みに満ちた言葉ですね。人が心に思うことは、幼い時から、つまり生まれた時から悪なのです。これはアダムとエバが善悪の木の実を食べて以来、すべての生まれくる人間が生まれながらにして罪に汚れ、さらに日々の生活にあって主の御前に罪を繰り返す者となったのです。普通に生まれくる人間は、誰一人例外なく罪に汚れているのです。このことを神学用語では、全的堕落と言います。つまり誰一人、自分の力で救いを勝ち取ることなど出来ないものとなっているのです。従って本当ならば、ノアを含めすべての生まれくる人間は、この洪水によって滅ぼされるべき者だったのです。
 にもかかわらず、主はノアとその家族を生かして下さったのです。そして、この時と同じように全ての生き物を滅ぼすようなことは、二度としないことを、主は私たち人間に対して宣言して下さったのです。これは、人間に罪が無くなったからでも、罪が小さくなったからでもありません。主は忍耐して、私たち人間が主の御言葉により、自らの罪を悔い改め、主によって生き、主の救いを受け入れる時を待っていて下さっているのです。
 そして昨年来、地震や洪水、雪といった自然災害が続いていますが、それらを通して主は、人間の力の小ささを示し、主の御力の偉大さを示して下さっているのです。そして罪を悔い改め、命をお与え下さる主を信じて歩むように導いて下さろうとしておられます。
 「地の続くかぎり」(22)つまりキリストの再臨による最後の審判がなされるまで、主の恵みが地上に満たされ、私たち人間の必要は、全て主によって満たされることを宣言して下さったのです。主は、今日も私たちを生かして下さっています。そして生きるための全ての必要を満たして下さっています。主が私たちを救いに導いて下さっていることを、心から感謝して、日々主を礼拝しつつ、主に栄光を帰しつつ、歩み続けていきましょう。


                                              (2005.2.6)
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