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【礼拝説教】  「主からの祝福と主への誓い」  辻 幸宏牧師

創世記14:17〜24

14:17 アブラムがケドルラオメルとその味方の王たちを撃ち破って帰って来たとき、ソドムの王は
    シャベの谷、すなわち王の谷まで彼を出迎えた。
14:18 いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。
14:19 彼はアブラムを祝福して言った。「天地の造り主、いと高き神に/アブラムは祝福されます
    ように。
14:20 敵をあなたの手に渡された/いと高き神がたたえられますように。」アブラムはすべての
    物の十分の一を彼に贈った。
14:21 ソドムの王はアブラムに、「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください」と
    言ったが、
14:22 アブラムはソドムの王に言った。「わたしは、天地の造り主、いと高き神、主に手を上げて
    誓います。
14:23 あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません。『アブラムを裕福に
    したのは、このわたしだ』と、あなたに言われたくありません。
14:24 わたしは何も要りません。ただ、若い者たちが食べたものと、わたしと共に戦った人々、
    すなわち、アネルとエシュコルとマムレの分は別です。彼らには分け前を取らせてください。」


ヘブライ人への手紙7:1〜10
7:1 このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って
   来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。
7:2 アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという
   名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。
7:3 彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に
   似た者であって、永遠に祭司です。
7:4 この人がどんなに偉大であったかを考えてみなさい。族長であるアブラハムさえ、最上の
   戦利品の中から十分の一を献げたのです。
7:5 ところで、レビの子らの中で祭司の職を受ける者は、同じアブラハムの子孫であるにもかか
   わらず、彼らの兄弟である民から十分の一を取るように、律法によって命じられています。
7:6 それなのに、レビ族の血統以外の者が、アブラハムから十分の一を受け取って、約束を受けて
   いる者を祝福したのです。
7:7 さて、下の者が上の者から祝福を受けるのは、当然なことです。
7:8 更に、一方では、死ぬはずの人間が十分の一を受けているのですが、他方では、生きている
   者と証しされている者が、それを受けているのです。
7:9 そこで、言ってみれば、十分の一を受けるはずのレビですら、アブラハムを通して十分の一を
   納めたことになります。
7:10 なぜなら、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだこの父の腰の中にいたから
   です。



 エラムの王ケドルラオメルは、ソドムやゴモラの国々を征服致しました。そのためソドムに住んでいたロトとその家族は捕虜となり、そして財産も全て奪い去られました。するとアブラムは、甥のロトを救い出すために立ち上がり、ロトを救出致しました(14:1-16)。ソドムの王は、戦いに敗れ逃げ隠れていたのであり、アブラムを喜び勇んで出迎えます。
 それと同時にサレムの王メルキゼデクもアブラムを迎えます(18)。メルキゼデクに関して聖書は唐突に記します。しかしメルキゼデクに関してはヘブライ書において明らかにされます。「メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です。」(ヘブライ7:1-3)。つまりヘブライ書におけるメルキゼデクの姿は、アブラハムの時代に現れたキリストを指し示す型として語られます。つまり、メルキゼデクとは、現実に存在したサレムの王であったと同時に、アブラムにとっては主が指し示した祭司・救い主であったのです。だからこそ、メルキゼデクはアブラムに対して祝福の言葉を語り、アブラムもそれを受け入れるのです。また主が祝福の言葉を語って下さることは、まさしくアブラムが主の御手の中に入れられ、どの様な状況の中にあっても守られ満たされている状態にあることを指し示しています。
 先日、連合青年会の春の例会が犬山教会において行われました。そこでキリストのリアリティーについて問いかけられました。私たちは今、聖霊を通して働きかけて下さるキリストの御姿をあなたは感じているのか? 講演においては、まさしく御言葉の聖書と説教、そして教理を身に着けていくことにより、その確信が強められていくことを確認しました。
 そしてアブラムの場合、今まさに主からの祝福の言葉を聞き、ここに主の働きを感じたのです。そして「アブラムはすべての物の十分の一を彼に贈った」(20)のです。主の導きと守りの感謝の応答が、献げ物という形に表れるのです。私たちも、教会員になりますと月々約束した額の献金を行い、同時に礼拝毎に献金をお献げします。これはまさしく主が救って下さり、日々の生活における必要を満たし、養って下さっていることへの感謝の応答です。また献金を献げる時、どれ位の額を献げたらよいのかといった疑問もあるでしょう。例えば福音書の例であれば、やもめはレプトン銅貨2枚を入れる記事があります(ルカ21:1-4)。これは彼の生活費のすべてでありましょう。このことを主イエスは賞賛します。彼は信仰によって生活が与えられることを信じて、全てを献金したのです。しかし同時に主は日々の働きによって私たちの生活を支えて下さっているのであり、それを有効に用いていくことが求められています。そのため、ここでアブラムが十分の一を献げたことは一つの基準としてよいかと思います(参照:レビ記27章)。つまり「献金が多いから素晴らしいとか、少ないからダメだ、十分の一を献げたから全てがよい」と語っているのではなく、主がお与え下さるものの中から、感謝の気持ちで喜んで献げることが重要です。
 一方、アブラムはソドムの王に対して、本来ならば敵の王たちを打ち破った故に多くの報酬を得ても当然のことですが、それを受け取ることはいたしません。これはソドムの王が人間的にアブラムに恩を売ったことを誇りとさせないためです(23)。同時に、この勝利がアブラムの手柄ではなく、主がお与え下さった恵みであることをアブラムは知っていたからです。だからこそアブラムはソドムの王へ語る時、主に誓って語ります。主に誓うことは、単なる口約束ではなく、重みが伴います。ウェストミンスター信仰告白は、第22章「合法的宣誓と請願について」において告白します。1 合法的宣誓は、宗教的礼拝のひとつの部分であって、宣誓においては、正当な場合に、宣誓者はおごそかに誓って、自分の断言または約束の証人となり、その誓いの真偽に従って自分のさばき主となりたもうよう、神を、呼び求めるのである。 3 宣誓する人はだれでも、非常に厳粛な行為の重大さを正当に考慮すべきであり、宣誓においては、真理であると十分確信していること以外の何事をも公言してはならない。だれでも、善で正しいこと、自分がそう信じていること、また自分が行なうことができ、行なう決意をしていること以外の何事をも行なうと、誓うべきでない。
 このように見てきますと、アブラムは、常に主が共におられ、働いて下さっていることを覚え、救いの希望を持ち、感謝と喜びを持って主に仕え、人々に対しても主の御業のみを信じて歩んでいることを誓ったのです。アブラムを通してお働き下さった主は、今、あなたに対しても働いておられます。主があなたを救い、守り導いて下さいます。感謝と喜びを持って、主に仕えていきましょう。


                                              (2005.5.1)
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