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【礼拝説教】  「主の定め」  辻 幸宏牧師

創世記24章1〜67節(1〜15節のみ抜粋)

24:1 アブラハムは多くの日を重ね老人になり、主は何事においてもアブラハムに
   祝福をお与えになっていた。
24:2 アブラハムは家の全財産を任せている年寄りの僕に言った。「手をわたしの腿の間に入れ、
24:3 天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。あなたはわたしの息子の嫁をわたしが
   今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、
24:4 わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように。」
24:5 僕は尋ねた。「もしかすると、その娘がわたしに従ってこの土地へ来たくないと
   言うかもしれません。その場合には、御子息をあなたの故郷にお連れしてよいでしょうか。」
24:6 アブラハムは答えた。「決して、息子をあちらへ行かせてはならない。
24:7 天の神である主は、わたしを父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫に
   この土地を与える』と言って、わたしに誓い、約束してくださった。その方がお前の
   行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることができるように
   してくださる。
24:8 もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば、お前は、わたしに対する
   この誓いを解かれる。ただわたしの息子をあちらへ行かせることだけはしてはならない。」
24:9 そこで、僕は主人アブラハムの腿の間に手を入れ、このことを彼に誓った。
24:10 僕は主人のらくだの中から十頭を選び、主人から預かった高価な贈り物を多く携え、
   アラム・ナハライムのナホルの町に向かって出発した。
24:11 女たちが水くみに来る夕方、彼は、らくだを町外れの井戸の傍らに休ませて、
24:12 祈った。「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、わたしを顧みて、主人アブラハムに
   慈しみを示してください。
24:13 わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが
   水をくみに来たとき、
24:14 その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、
   『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、
   あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。そのことに
   よってわたしは、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう。」
24:15 僕がまだ祈り終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せてやって来た。


 聖書全体は、神の契約とそれに対する人間の信仰が語られており、特に創世記では、アブラハムの子孫が空の星のようになる(15:5)と主がアブラハムに約束された契約をしっかりと捉えておくことが必要であります。そしてアブラハムにはイサクが生まれたのあり、その子イサクがどの様に主の祝福に満たされるのかとが、この結婚に凝縮されています。
 現在であれば結婚相手を親が捜し求めれば批判の声が出てくるのでしょうが、当時はそれが当然のことでした。そしてここで父アブラハムの信仰を、私たちは確認することが出来るのです。信仰とは、若い時には不信や様々な罪がありますが、主によって日々聖化させられて行き、信仰が養われていくのです。
 アブラハムは年寄りの僕に語ります(2〜4)。「腿の間」とは生殖器の象徴的な表現で、「腿の間に手を入れる」ことは厳粛な誓約が求められていることを語ります。そしてアブラハムは、息子の嫁をカナン人の娘から取ることを禁じます。もちろんカナン人同様に、他のエジプトやアッシリア、メソポタミヤの民でもいけません。神の祝福が継続的にもたらされるには、ただ子孫が増えるだけではなく、子孫が同時に神の民でなければなりません。つまり信仰の継承が求められ、神の民を偶像に導くような行為は許されないのです。現在のキリスト者の結婚においても同様のことが言えます。未信者との結婚が許されないことはありません。しかし、自らがキリスト者としての信仰をしっかり持ち、毎主日礼拝に集うことによる祝福に満たされていることによる喜びに満ちた生活が出来ており、毎週礼拝に行くという強い信仰がなければ、結婚相手の不信仰に流されていくこととなるのです。ですから、キリスト者が未信者と結婚する場合、慎重にされなければならないのです。
 僕は主人アブラハムの腿の間に手を入れ、誓い、出発していきます(9)。そして、僕は祈ります(11-14)。ここでの僕の祈りは、とても挑戦的でありつつ具体的な祈りです。ここに私たちが主の御旨を知るための祈りのスタイルが示されているのです。直接、主に出会ったり、主の御声を聞いたりしない私達にとって、聖霊の働きにより、祈りが聞き入れられることを確認することは、主の導きを知る大きな手がかりとなります。ですから本当に主がお示しになる道に進もうとしている時、具体的な事柄を祈り、それが達成されることにより主の導きを確認することも、私たちには許されているのではないでしょうか。もちろん、主を試みてはなりません。自己目的達成のために主に求めることは出来ません。僕はまだ祈り終わらないうちに、僕の祈りは聞き遂げられ(15)、主の御旨を確認することが許されたのです。
 8月14日から中会の青年会修養会が持たれましたが、テーマは「神の臨在のリアリティー」についてでした。いつの時代にも問いかけられる問題の一つですが、クリスチャンホームで育った契約の子の多いことが一つの要素でしょう。契約の子の多くは、信仰を告白しつつも、生きて働く主を確認出来ずにもやもやしているのです。
 祈りによって主の答えを知る。それも主の働きを知る一つの方法なのです。この僕のように主の御旨に適っていることであれば、聞き遂げられ、主の御旨に適っていなければ、祈りは聞き入れられないのです。それを確認することにより、主の臨在を知ることが出来るのです。このことを確認しないから、主が見えなく、ぼんやりとしてしまうのです。つまり祈りっぱなしになり、後は祈ったことすら忘れ、主の働きを覚えようとしないのです。
 祈りとは、何も聖書を読み、その後に手を組んで祈る祈りだけが祈りではありません。時には苦しみもだえている時の嘆き、あるいは声にもならないつぶやき、そうした祈りにもならない祈りにも、主は答えて下さるのです。主は本当にふさわしい答えを、下さるのです。私たちは祈りが聞き届けられたとしても、その祈りすら忘れてしまい、主の臨在が見えないと嘆いているのです。ですから何を祈ったか、それをメモの留め、それを後から検証することも、主の働きを確認する上で非常に有効な方法となってくるのです。
 この様にして、主はアブラハムにお語り下さった契約を成就するために、お導き下さいました。主はダイナミックに、アブラハムとその周囲の人たちに働き下さり、主のご計画を実現して下さいました。そして私たちにも、日々働きかけて下さっています。



                                            (2005.9.4)
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