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【礼拝説教】  「イスラエルの周辺」  辻 幸宏牧師

創世記36章1〜43節
  1 エサウ、すなわちエドムの系図は次のとおりである。2 エサウは、カナンの娘たちの中から妻を迎えた。ヘト人エロンの娘アダ、ヒビ人ツィブオンの孫娘でアナの娘オホリバマ、3 それに、ネバヨトの姉妹でイシュマエルの娘バセマトである。4 アダは、エサウとの間にエリファズを産み、バセマトはレウエルを産んだ。5 オホリバマは、エウシュ、ヤラム、コラを産んだ。これらは、カナン地方で生まれたエサウの息子たちである。
  6 エサウは、妻、息子、娘、家で働くすべての人々、家畜の群れ、すべての動物を連れ、カナンの土地で手に入れた全財産を携え、弟ヤコブのところから離れてほかの土地へ出て行った。7 彼らの所有物は一緒に住むにはあまりにも多く、滞在していた土地は彼らの家畜を養うには狭すぎたからである。8 エサウはこうして、セイルの山地に住むようになった。エサウとはエドムのことである。
  9 セイルの山地に住む、エドム人の先祖エサウの系図は次のとおりである。10 まず、エサウの息子たちの名前を挙げると、エリファズはエサウの妻アダの子で、レウエルはエサウの妻バセマトの子である。11 エリファズの息子たちは、テマン、オマル、ツェフォ、ガタム、ケナズである。12 エサウの息子エリファズの側女ティムナは、エリファズとの間にアマレクを産んだ。以上が、エサウの妻アダの子孫である。13 レウエルの息子たちは、ナハト、ゼラ、シャンマ、ミザである。以上が、エサウの妻バセマトの子孫である。14 ツィブオンの孫娘で、アナの娘であるエサウの妻オホリバマの息子たちは、次のとおりである。彼女は、エサウとの間にエウシュ、ヤラム、コラを産んだ。
  15 エサウの子孫である首長は次のとおりである。まず、エサウの長男エリファズの息子たちについていえば、首長テマン、首長オマル、首長ツェフォ、首長ケナズ、16 首長コラ、首長ガタム、首長アマレクである。これらは、エドム地方に住むエリファズ系の首長で、アダの子孫である。17 次に、エサウの子レウエルの息子たちについていえば、首長ナハト、首長ゼラ、首長シャンマ、首長ミザである。これらは、エドム地方に住むレウエル系の首長で、エサウの妻バセマトの子孫である。18 エサウの妻オホリバマの息子たちについていえば、首長エウシュ、首長ヤラム、首長コラである。これらは、アナの娘であるエサウの妻オホリバマから生まれた首長である。19 以上が、エサウ、すなわちエドムの子孫である首長たちである。
  20 この土地に住むフリ人セイルの息子たちは、ロタン、ショバル、ツィブオン、アナ、21 ディション、エツェル、ディシャンである。これらは、エドム地方に住むセイルの息子で、フリ人の首長たちである。22 ロタンの息子たちは、ホリとヘマムであり、ロタンの妹がティムナである。23 ショバルの息子たちは、アルワン、マナハト、エバル、シェフォ、オナムである。24 ツィブオンの息子たちは、アヤとアナである。アナは父ツィブオンのろばを飼っていたとき、荒れ野で泉を発見した人である。25 アナの子供たちは、ディションとアナの娘オホリバマである。26 ディションの息子たちは、ヘムダン、エシュバン、イトラン、ケランである。
27 エツェルの息子たちは、ビルハン、ザアワン、アカンである。28 ディシャンの息子たちは、ウツとアランである。
  29 フリ人の首長は次のとおりである。首長ロタン、首長ショバル、首長ツィブオン、首長アナ、30 首長ディション、首長エツェル、首長ディシャン。以上がフリ人の首長であり、セイル地方に住むそれぞれの首長であった。
  31 イスラエルの人々を治める王がまだいなかった時代に、エドム地方を治めていた王たちは次のとおりである。32 エドムで治めていたのは、ベオルの息子ベラであり、その町の名はディンハバといった。33 ベラが死んで、代わりに王となったのは、ボツラ出身でゼラの息子ヨバブである。34 ヨバブが死んで、代わりに王となったのは、テマン人の土地から出たフシャムである。35 フシャムが死んで代わりに王となったのは、ベダドの息子ハダドであり、モアブの野でミディアン人を撃退した人である。その町の名はアビトといった。36 ハダドが死んで代わりに王となったのは、マスレカ出身のサムラである。37 サムラが死んで代わりに王となったのは、ユーフラテス川のレホボト出身のシャウルである。38 シャウルが死んで、代わりに王となったのは、アクボルの息子バアル・ハナンである。39 アクボルの息子バアル・ハナンが死んで代わりに王となったのは、ハダドである。その町の名はパウといい、その妻の名はメヘタブエルといった。彼女はマトレドの娘で、メ・ザハブの孫娘である。
  40 エサウ系の首長たちの名前を氏族と場所の名に従って挙げれば、首長ティムナ、首長アルワ、首長エテト、41 首長オホリバマ、首長エラ、首長ピノン、42 首長ケナズ、首長テマン、首長ミブツァル、43 首長マグディエル、首長イラムである。以上がエドムの首長であって、彼らが所有した領地に従って挙げたものである。エサウは、エドム人の先祖である。



 ヤコブの兄弟エサウの系図が記されています。繰り返しになりますが、旧約の時代、系図に名前が記されることは非常に重要なことでした。自分がアブラハムの子孫であり、神の救いに預かる神の民であることを系図によって確認することが出来たからです。
 この36章にはいくつもの系図が記されており、それぞれが何を意味しているのか、理解するのは困難な業です(参照図解)。最初にエサウ(=エドム)の系図が3つの形で記されています(1-20)。これはほぼ同じものであり、繰り返し述べられています。
 続けてフリ人セイルの系図が記され(20-28節)、フリ人の首長たちが続きます(29-30)。フリ人セイルと突然語られていますので、彼は誰なのかとも思ってしまいますが、エドムとは非常に関わりの深い民族であったことだと考えられます。それは系図を丹念に参照していただくと見えてくることでもあります。ロタンの妹がディムナです(22)。彼女は、エサウの息子エリファズの側女ティムナです(12)。さらに「(フリ人セイルの子)アナの子供たちは、ディションとアナの娘オホリバマである」とあります(25)が、「エサウが迎えた妻のリストで、ヒビ人ツィブオンの孫娘でアナの娘オホリバマ」(2)のことです。さらにフリ人(20)のことを、ヒビ人(2)と記していることに注目することができます。これは謝って記されたのか、改名されたのかよく分かりません。しかしヒビ人であるとすれば、ノアの子ハムの子孫です(10:17)。アブラハムがセムの子孫になりますから、両者はノアにまで遡る必要があるのですが、このヒビ人とエドムがここにきて、密接に繋がっていると聖書は語ります。しかしこの系図も私たちにとっては単なる名前の羅列にすぎず、なぜここに記されているのかすら理解できない王たちの系図も含まれています。ですから私たちは、ここから何を読み取って良いのか分かりません。
 しかし私たちは一つのことに注目することができるかと思います。エドムは、イスラエルと同じアブラハムの子孫であっても、イシュマエルの子孫と同様にヤコブの子ではなく、イスラエルに属する者ではありません。しかし聖書は彼らも系図に記すことにより、神様がお選び下さったアブラハムの子孫であり、神様の救いに導かれている民であることを語っています(歴代誌上1;34-54)。だからこそ主はエドム人も兄弟であり、彼らをいとってはならないと記すのです(申命記23:8)。
 しかしながら、実際には神の民であるイスラエルとエドムとの間には、繰り返し問題が生じ、争いが絶えなかったのです。モーセが出エジプトを果たし、イスラエルを率いて約束の地カナンに入ろうとする時、エドムの土地を通る許可を求めますが、エドムの王はそれを拒みます(民数記20:14-21)。
 またユダはバビロンによって滅ぼされ、バビロンに補囚の民とされますが、その直前ユダは、エドム、アンモン、ティルス、シドンと共に、反バビロン同盟を作り、バビロンからの攻撃に備えたのです(エレミヤ27:1-7)。しかし、このエドムはカルデア、アラム、アンモンと共に、ユダを裏切り、バビロン側の略奪隊としてユダに攻め込み、その結果ユダは滅ぼされていくのです(列王記下24:1-2)。そのためユダはバビロンも憎むのですが、それ以上に裏切ったエドムを憎むのです。怒りと憎しみがこみ上げてくるのです。そのことがオバデヤ書を初め、エゼキエル35章、哀歌4:21-22、詩編137編、イザヤ書34章、63章、マラキ書1:2-4、アモス1:11-12などによって、ユダの憎しみと主によるエドムの裁きが語られていくのです。
 つまり、エドムに対して、主なる神様は選びの民であることを語り、また神の民であるイスラエルもまた兄弟としての交わりを持とうとするのですが、エドムは、主の民であるイスラエルと対立関係に常にあり、主の裁きに遭うのです。このことは言い換えますと、すでにキリスト者として召された者たちと、未だ神様の御言葉に聞こうとせず、自分たちの求めるままに生きている人たちとの関係に重ね合わせることが出来るかと思うのです。主なる神様は、神の民として召される全ての民の名を、天国の戸籍に名前を記し、救いにふさわしい者にしようとしているのです。そしてその中で、私たちは前もって召され、今、神様による救いを信じ、礼拝を守っているのです。しかし、この世には神様によって召され、神の子とされることが定められながらも、いまだに神の御前に集められていない多くの人たちもいるのです。主なる神には、誰が救われ、誰が該当しないか全て明らかでありますが、私たちにはそれが示されておりません。だからこそ、私たちはどの人たちに対しても、神が召して下さる方であることを信じて、交わりを行い、また祈っていかなければなりません。そして神の民であれば、かならす主は御霊の働きにより、その人を主の御前にお集め下さり、主の御言葉に聞き、主を信じ、主に従う者へと変えて下さるのです。
 しかし、結果として主の選びに入れられていない人たちは、主が呼び求め、イエス・キリストの十字架による罪の赦しと救いをお語り下さっても、エドムの如くに、罪を繰り返し、結果として、主の裁きに引き渡されることとなるのです。しかし、裁きはあくまでも主の御業であり、私たちはどのような人に対しても、主の兄弟として召されているものと心に留め、愛と交わりを持つことが求められているのです。


                                            (2006.2.19)
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