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【礼拝説教】  「真の誇り」  辻 幸宏牧師

ヤコブの手紙1章9〜11節

  9 貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。10 また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。11 日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。



T.価値観
 私たちがこの世における生活を営むため、多くの者は経済的な豊かさを求めて生きます。それを否定することは出来ないでしょう。しかし同時に、経済的な貧しさ・身分的な低さ・差別の故に、多くの人たちが苦しんでいます。今の日本社会は、ヤコブの手紙が書かれた時代とは比べると、文明が進歩していますが、なおも格差は広がり、食べること・寝ること一つに苦しむ多くの人たちもいます。そうした中、経済的な貧しさの中に生きている人たちは、富んでいる者に対する偏見、羨みなどがあるでしょう。経済的豊かさが世における一番の価値基準であり、その他のことは受け入れられない社会だからです。
 しかしヤコブはこうした歪んだ価値基準に「否」を語ります。最も祝福され、恵みに満たされている状態は、神さまによって救われ、永遠の生命の約束に生きる事です。つまり、地上の富に目が行く時、私たちは天上の富である神による真の救いから目を離してしまうのです。また地上においていくら富を蓄え、裕福な生活を送っていたとしても、富を天国に持って行くことは出来ないのです(参照:マタイ6:19-21)。私たちは、救いに関わる神の国に注目すべきで、それを指し示す御言葉に聞かなければなりません。それを忘れ、地上の富を追いかける時、私たちは信仰の道を踏み外してしまうのです。

U.貧しさの中にある救いの希望
 ヤコブは、1:9「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい」と語ります。当時、日々の生活の貧しさ、身分の低さに嘆いている人たちがいました。奴隷もいました。多くの人々は、日々の生活に苦しみを覚え、生きていく希望すら失いかけていたのです。しかしここで語られている彼らは、同時に主にある「兄弟」でした。主によって救いに導かれたのです。既に、キリストの十字架によって罪の贖いを受け、神の子とされています。
 新共同訳では「自分が高められる」ですが、口語訳では「自分が高くされた」です。すでに、神の子としての身分が与えられていると語っています。新改訳では、「自分の高い身分」です。つまり信仰を告白してキリスト者となることは、すでにキリストの十字架の贖いによって罪が赦され、神の子として救いに入れられ、神の国における永遠の生命に入れられていることを、受け入れ告白することです。ですから、口語訳や新改訳のように、現在完了形で訳されるのは、地上にあって貧しさ・苦しみの中、生活しているけれども、あなたはすでに神の子とされ、すべての特権が与えられている、約束されているのです。
 一方、未来形で訳す新共同訳は、苦しみの中に生活している現実を語ります。しかし、主によって与えられる復活の生命、神の御国における永遠の生命にあっては、神の子として祝福に満たされた歩みを行うのであり、その希望に生きることが出来ることを語ります。
 この二つの訳の違いは、キリスト者の姿そのものを表しています。すでに神さまによって救われ、神の子とされ、全ての特権が与えられる約束が与えられています。キリストの十字架の贖いは完成し、私たちの罪は取り除かれているのです。一方、今なお罪の残滓があり、世の苦しみの中、生きています。そして、神の国の完成を待たなければなりません。その時に与えられる祝福を待ち望むことが求められています。
 この「すでに」と「いまだ」の両面を、キリスト者は持っているのです。

V.地上における富
 1:10「富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。」ここで語られている「富んでいる者」も、キリスト者とされている富んでいる者です。キリストは、金持ちが天の国に入るより、らくだが針の穴を通る方が易しい(マタイ19:23〜24)と語られています。しかし決して富んでいる者が救われないとは語られていないのです。教会に経済的に成功した人も求められているのであり、主イエスの弟子の徴税人マタイも金持ちだったのではないでしょうか。教会も、伝道のため、教会運営のために、必要はあるのです。
 しかしヤコブは、富んでいるキリスト者が、「低くされていることを誇りに思いなさい」と語ります。これは、真のキリスト者とされて、この世の身分や価値判断に目を惑わされることなく、真の富である神の救いを見ることが出来るようになっていることを語ります。この「低くされている」とは、実際的な生活として、富があり、権力があり、身分の高さなどを投げ捨てたと言うことではなく、そうした富・権力・身分にもかかわらず、主の御前にある遜りと謙虚さをもって、主に仕え、人々に仕えていることです。この低さは、誇る者はキリストしかなく、自らの内には罪が示され、主の御前に何も誇ることがないことが示されることから生じてくるのであり、これこそがキリスト者の姿なのです。
 1:10b〜11「富んでいる者は草花のように滅び去るからです」ここでの「富」は、まさしく世の富を追い求め、神の救いを求めない人たちのことです。草が枯れ、花が枯れるように、地上にあるものは、すべて消え失せてしまうのです(イザヤ40:7-8)。地上の富を、何一つ天国に持って行くことは出来ないのです。
 私たちは、地上に生きていく時、経済的な必要を認め、豊かになりたいとの思いがあります。しかし、キリスト者としての真の誇りは、罪の故に死に行くべき者が、キリストの故に罪が赦され、永遠の生命が与えられた祝福に入れられていることです。この富は、永遠に朽ち果てることがありません。地上にあって、朽ち果てるものを追い求めることなく、永遠に朽ち果てることのない祝福・喜びを追い求めて、日々歩み続けていきましょう。

                                     (2007.6.24)
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