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【礼拝説教】  「御言葉を行う者」  辻 幸宏牧師

ヤコブの手紙1章22〜25節

  22 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。23 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。24 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。



T.第一に御言葉を聞くこと
 主は、毎週日曜日には教会の礼拝に出席することを求められます。また、出来る限り主の日の集会、週間の祈祷会などの集会にも出席することを求めます。さらに毎日、家庭でも個人でも聖書を読むことを薦めています。それは、何よりも、御言葉である聖書の言葉に聞き、主を礼拝することが求められているのです。そして御言葉を疎かにしての行いはあってはならないのです。御言葉によって、奉仕することの大切さ、伝道することの大切さが語られると、御言葉をそっちのけで、主の日であっても、朝から奉仕活動を行い、伝道活動を行う人たちもいます。しかし、聖書はそうしたことを語っていないのです。
 一つの譬えとして、マルタとマリアの話しがあります(ルカ10:38-42)。主イエスが二人の姉妹の家を訪ねた時、姉のマルタはイエス様の接待を行うために準備を行いますが、妹のマリアは主イエスの御言葉を聞くために主イエスの前に座ります。ここでマルタは主イエスに対して、マリアに注意をするよう促しますが、主イエスは、「必要なことはただ一つだけである。マリアはよい方を選んだ。」と語られるのです。

U.御言葉によって自らを省みよ!
 ところでヤコブは「御言葉を行う人になりなさい」(22)と語ります。つまり、私たちは御言葉に聞くだけでよいのか、キリスト者として生きるとはどういうことかとです。つまり御言葉の聞き方が問われているのです。ヤコブは語ります。「自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(22)。つまり主の御言葉を聞く時、「良い話しを聞いた。素晴らしかった」では終わらないのです。主が御言葉を語り、主イエスが模範を示して下さっています。それが語られた時、知的理解に留まっていてはならないのです。
 聖書を昔話として読んではならないのです。他人事ではないのです。時代も、国も、文化も、言葉も超えて、主は普遍的な言葉として、今のこの日本に生きる私たちに語りかけて下さっているのです。御言葉によって、自らの罪の姿、神による救い、キリストによる一方的な贖いが語られているのです。そうすれば救われた者として、罪に留まり続けることは赦されないのです。キリストは模範を示し、自らに倣うよう求めておられます。
 御言葉は私たち自身を写す鏡そのものです。私たちは鏡を見て、髪型や服装などを整えたりします。同様に、自らの罪の姿が示された時、すぐに悔い改めること、律法に適った生活を行うことが求められているのです。イスラエルの罪の姿は、私たち自身を写す鏡そのものなのです。人は弱いもので、聞いてもすぐに悔い改めを行わなければ、忘れてしまいます。御言葉を聞いても聞きっぱなしとなり、罪は放置されたままとなります。忘れやすいからこそ、繰り返し御言葉に聞く必要があり、その都度、罪の悔い改め求められるのです。そうすることによりキリスト者として成長するのです。ですから、「神さまを信じた。洗礼を受けた。だから今日から一人前のクリスチャンだ」と言った所で、それはスタートラインに立ったに過ぎず、私たちは、日々御言葉に聞き、自らの姿を顧み、悔い改め、主の御声に聞き従っていくことが求められているのです。

V.御言葉を行おう!
 ヤコブは「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ」よ(25)と語ります。律法とは、旧約聖書のことです。他の箇所では多くの場合「律法と預言者」と語られています。「自由をもたらす完全な律法」。これは律法学者たちを意識した言葉です。律法学者たちは、聖書に様々な律法を付け加え守るべきものを定めていました。それは人を自由にするどころか、逆に自由を縛っていたのです。しかし、本来、主がお語り下さった御言葉は、人々を縛るものではありません。「メシアによってあなたたちは救われ、自由になったのです。だからこそ、感謝と喜びをもって、主に従いなさい。主に従うことにより、再び罪の道を歩むことなく、救いの道を歩むことが出来るのですよ」とお語り下さったのです。
 主は私たちをこの場にお招き下さり、「御言葉を受け入れなさい」とお語り下さるのです。私たちの罪の赦しは、すでに2000年前、主イエス・キリストの十字架によって成し遂げられたのです。主を信じる者は、すでにキリストの十字架によって、罪から解放されています。ただ私たちはなおも罪の中歩んでいます。罪赦された罪人です。だからこそ、主がお語り下さった御言葉に耳を傾け、真理を求める必要があるのです。御言葉は、一度聞いても忘れてしまうことが多いでしょう。だからこそ繰り返し主の御言葉に聞き、自らの事として受け入れ、主の示された生活が求められているのです。


                                     (2007.7.29)
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