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【礼拝説教】  「自分の心を欺く」  辻 幸宏牧師

ヤコブの手紙1章26〜27節

  26 自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。27 みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。



序.自分を欺くとは?
 普通の日本語ですと、「人を欺く」とか「人に欺かれる」と言うでしょう。しかし、聖書は、「自分の心を欺いている」と語ります。これはどういうことでしょうか。ここには、自らの信仰(心)と行いの関係、両者の乖離があることが問題とされています。

T.行いによって救われる?
 主イエスは律法学者たちを繰り返し非難しましたが、律法学者の誤りは、律法主義に陥ること、つまり、律法を全うすることによって救われると考えていたことです。しかし、私たち人間は律法を全うして救われるのではないのです。それは私たち人間は律法を全うすることが出来ないからです。このことを主イエスは金持ちの青年の譬えで語っています(マタイ19:16〜25)。この青年の問題点は、彼が信仰に基づいて律法を全しており、その行いによって救われる権利があると思っていたことです。しかし主イエスは、彼の行いには足らない部分があることを指摘します。それが貧しい人々への施しです。このことは、主が律法である十戒を我々に何を目的として与えられているかを考えねばなりません。律法の要約がマタイ22:34〜40(参照:ウェストミンスター小教理問答問42)にしるされています。つまり、金持ちの青年に欠けていたものは、律法を守ることに必要な隣人への愛であり、行いとは愛に基づいたことなのです。愛の伴わない形だけの行いは意味をなさないのです。言い換えれば、人は誰も自分の行いによって律法を全うすることが出来ない罪人であることに気付くべきであり、主なる神さまを信じる以外に救いの道はないのです。

U.信仰の実りとしての善き行い
 しかし主は、神さまを信じれば、どの様な生活を行っていても良いとも語られていません。私たちは、真にイエス・キリストの十字架によって自分自身の罪が赦され、神さまによる永遠の生命の救いに入れられていることを信じているのです。自らの行いによってキリストが十字架に架けられたことを思えば、放縦な生活など送ることは出来ないのです。主の御前に、律法に従い得ない自分がいるのです。しかし、主は、私たちの行いによってではなく、ただ主イエス・キリストを信じるが故に、キリストの十字架によって罪を赦し、救って下さるのです。この神の愛、キリストの愛が、本当に示されれば、主の御前に罪とされることを繰り返すことは無くなるのではないでしょうか。
 ヤコブは語ります。「自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。」(26)。「自分が信心深い者だ」とは、「自分は宗教に熱心である」(新改訳)です。つまり自分の信仰を他人と比較して立派であると語っているのではなく、宗教的礼拝に熱心である、誰よりも熱心に神礼拝を守り、教会での奉仕を立派に行っていると自負していることです。そして、信心深いのであれば、当然、主がお語り下さる御言葉に聞き従い、信仰の実りとしての善き行い、つまり律法に従って歩み続ける者とされていくのです(参照:ウェストミンスター信仰告白16:2)。
 しかし、舌を制することができず、己の欲望のままに人に語り、人を傷つけ、人の痛みを顧みない言葉を発する者がいます(26)。こうした行為は、主の御言葉に反する行為です。これがヤコブの語る自分の心を欺くことです。人を傷つける言葉を平気に語る者が、真の主への信仰を持っているとは言えないのです。つまり、私たちの主への信仰は、心の内だけに留まることなく、行動・口から発せられる言葉・心の感情にすべて表れてくるのです。

V.信仰にもとづく愛
 ヤコブは27節において、信仰に基づく愛の実践を語ります。みなしごや、やもめが困っているときに世話をする。見返りを期待した行いは、決して愛に基づいた行動ではありません。現在の日本では、最低限の社会保証はあります。しかし聖書の時代、社会保障などありません。みなしごややもめが自分の手で稼ぐことなど出来ません。従って見返りを期待するは出来ないのです。ルカ福音書10章25節にあります善きサマリア人も、同様に見返りを期待しない行いです。そうした人々を世話することは、神の愛の実践そのものなのです。キリストの十字架もまた私たちに与えられた無償の愛であり、キリストの十字架に倣う行いなのです。
 自分を欺かない信仰生活とは、御言葉を通して自らの罪を認め、悔い改めて、キリストに倣う者となることであり、信仰の実りとしての行動において愛の業を行うことが出来るものとされる事です。神さまを礼拝する信仰と日々の行いが一致する時、私たちの信仰もまた、主によって喜ばれるものとなるのです。

                                     (2007.8.5)
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