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【礼拝説教】  「自分の心を欺く」  辻 幸宏牧師

ヤコブの手紙2章1〜5節

  1 わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。2 あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。3 その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、4 あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。
  5 わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。


序.
 人はある程度身なりを整えて、他人からの信頼を得ることは必要でしょう。今日の御言葉は、身なりを気にする人と共に、権力・身分相応の身なりの人を、キリスト者である私たちがどの様に見るべきかを教えます。つまりここでは、他人の身なりを云々言うのでなく、信仰から生じる私たちがそれをどのように受けとめるかを考えようとしているのです。

T.教会の集会
 「集まり」(2)、今までの訳では「会堂」と訳されていた語です。これは教会を表す「エクレシア」ではなく、ユダヤ教における「集まり」を表す「シナゴグ」です。この語は、福音書・使徒言行録では頻繁に用いられていましたが、書簡では他に全く用いられていません。ここでは教会での礼拝ではなく、教会内の公的な集会か、有志の集まりであったと推測することが出来でしょう。それは「あなたがたの集まり」であり、キリスト者が中心に集い、そこに求道者なり神さまを求める人たちも連なっていると考えられるからです。
 そこに二人の人たちが入って来ます。彼らが信仰を持っていたか否か、人に連れられてきたのか、一人で来たのか等、彼らの背景は全く語られていません。知らなくても良いのです。ここでの問題は、彼らに対して私たちキリスト者がどの様に対応するのかです。

U.集会に集う者たち
 一人は金の指輪をはめた立派な身なりの人です(2)。「金の指輪」は、立派な装飾が施されている見せるための指輪ではありません。当時、指輪は権威と威厳の象徴であり、栄誉、地位を示します。地位を印字した印章付きの指輪かも知れません。ですから、彼はそれなりの地位に着いていたのです。そのため彼が入ってくると、誰もが一目を置き、無礼に当たらないように対応します。しかしそこには、人それぞれの思いがあります。ある人は、彼の地位に取り入りたいがために彼に接します。逆に、反感を持たれたくない人もいたでしょう。またある人は、彼にあこがれをもって接していたでしょう。・・・
 次に貧しい人(2)が集会に来ます。彼は汚らしい服装です。その日一日を暮らすのがやっとで、新しい服を買うどころか、着替えることも出来ず、風呂に入れず、洗濯もしていなかったことでしょう。ですから異臭も漂っていたでしょう。現在でいうホームレスです。人は彼には近寄りたがりません。最近、横浜で公園に寝泊まりしているホームレスを、少年が殺すという事件がありました。彼は捕まった後も反省することなく、「屑はいなくなっても構わない」と語ったそうです。社会的に決して許されない言葉ですが、大なり小なり彼のような思いに立っている人も多くいるのです。身なりで、彼の社会的存在価値を抹殺しているのです。ヤコブ書において語られている教会の集会に集っているキリスト者も同じ態度です。そして私たちも無意識の内に同じ行動を行っているのではないでしょうか。

V.主によって招かれた人たちに対する対応
 私たちが考えなければならないのは、ここが「あなたがたの集まり」であったことです。つまりキリスト者によりキリストを宣べ伝える集会です。キリストがお招き下さった民が集っており、ここに来ている全ての人を、主御自身が招いて下さっているのです。
 そして主は集会に集っている全ての人をどこに招こうとされているのでしょうか。主は、今も神の国において栄光に満ちておられるお方です(1)。そのお方が招いて下さるのですから、そこに集う全ての民もまた主によって栄光に満ちた神の国に招かれているのです。
 ゼカリア書3章の幻は、バビロン補囚から帰還しようとしているイスラエルの民に対して語られています。大祭司であっても汚れた衣を着ています。異教の地バビロンにおける偶像の汚れです。しかし彼は主によって召された大祭司でした。そのため主は彼をサタンの虜にすることをお許しになりません。主は、彼を主の御前に立たせる時、汚れた衣を脱がせ、晴れ着をお与え下さいます。それは彼を汚れた罪の世界から解放し、罪のない神の国にお導き下さるからであり、それは神の国・神の栄光に相応しい服装なのです。罪に汚れた服装から神の栄光に相応しい晴れ着に着替えさせて下さるのは、主なる神さまです。
 ヤコブの手紙において主によって招かれた二人の人もまた、同様のことが起こるのです。立派な身なりの人も、主の御前に出るのに相応しい服装が与えられます。また汚らしい服装の人にも与えられるのです。地上において差別される要因となるものは、主の御前に、すべて取り除かれます。だからこそ、私たちは人を身なりで判断し、区別してはならないのです。特にそれが主がお招き下さる神礼拝・諸集会であればなおさらのことです。

                                     (2007.8.26)
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