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【礼拝説教】  「信仰に基づく行い」  辻 幸宏牧師

ヤコブの手紙2章14〜17節

  14 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。15 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、16 あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。


序.
 宗教改革を始めたルターは、パウロの記したローマ書より「信仰義認」を強調しました。それは、律法を全うしたことによって救いを獲得したのではなく、主が一方的な恵みにより救いをお与え下さることから来ている教理です。これは当時のカトリック教会が、御言葉が語られることなく、免罪符を代表とする信仰の金銭的売買を初めとして、行いによって救いを得ることが出来るようになることを語っていたことに対する、聖書的な抵抗です。福音主義プロテスタント教会である私たち改革派教会も、同じ立場に立っています。

T.「律法主義」に非ず、また「律法廃棄論」に非ず
 しかしルターは、2:14の御言葉を代表とするヤコブ書を「藁の書」と呼び、他の書簡より劣ったものと位置づけました。結果的に信仰を持った後のキリスト者の生活に関してはあまり顧みないこととなり、後の時代、ルターは意図していなかったのですが、「神さまを信じれば、何を行っても良いのだ」という考えも出てくるのです。主により信仰が与えられた者は、行いが伴うことを、聖書は語ります(2:14)。このことは、信仰義認を強調したとされるパウロも語ることです(ガラテヤ5:22〜23)。
 従って、改革派教会では創立宣言において、三本柱(信仰告白、教会政治、善き生活)を主張しますが、その中の善き生活において、「我等は律法主義者に非らず、又律法排棄論者に非らず」と告白するのです。
 主は私たちの生まれる前から、永遠の予定により、私たちを神の子として定めていて下さっています。私たちは罪があるため、自らの行いによっては誰一人、主の救いに相応しくなることなど出来ません。罪人である私たちは、キリストの十字架によって一方的に全ての罪が赦されて、救われるしか方法はないのです。そして、私たちは御言葉により、自らの罪を知り、主なる神を知り、主なる神さまを信じて告白するのです。そして救われたことの感謝と喜びに包まれて日々歩むのです。そうすれば、罪の中に留まり続けることが出来なくなるのです。神の子として相応しくあろうとして、キリストの生活に倣おうとするのです。それが聖化であり、善き業となるのです。
 そして、私たちがキリストに倣うために律法である十戒が与えられているのです。十戒により私たちは自らの罪を知るのですが、同時に信仰が与えられた神の子にとっては、神の聖・義・真実が示されており、十戒によりキリストに倣う生活が可能となるのです。

U.私たちの立つべき信仰の立場
 私たちに今問われていることは、信仰のあり方です。つまり「神さまを信じる」と言うことは誰でも言えるのであり、心が伴っていなくても言えるのです。仮にキリスト者を迫害しようとしているスパイが教会に潜入することさえ、なきにしもあらずです。
 しかし私たちが主によって救われ信仰生活を続けることは、口先だけではないのです。主の御前に立たされた時、律法によって示された己の罪がどれ程大きなものであるか。十戒に記された言葉において、行いばかりか、言葉、心の中まで問われているのです。私たちの心の中まですべて主はご存じです。そして何一つ、反論することが出来ないのです。私たちはその罪を受け入れざるを得ないのです。それは永遠の死に至る刑罰が伴うのです。
 しかしキリストは、この私たちの全ての罪を背負い、十字架にお架かり下さったのです。私たちの罪は、キリストの十字架によって一方的に贖われたのです。
 口先だけ、頭の中だけで理解、思弁的な信仰となってはなりません。日本の教会はまさに思弁的でした。戦時中、神さまを信じると語りながらも、天皇を崇拝し、神社参拝を行ったのです。そして戦後も、その罪に対する悔い改めを行うこともなかったのです。キリストの十字架によって、罪が贖われ、救われたことが示されているにもかかわらず、主が「わたしの他に、何者をも神としてはならない」と語る第一戒の戒めを、教会はこぞって、違反したのです。信仰が歪むと、隣人愛も歪むのです。神社参拝を行わない他の教会(特に朝鮮半島の教会)に対して、彼らの信仰を理解することなく、圧力的に神社参拝を強要したのです。神の私たちに対する愛、キリストの私たちに対する愛を理解していなかった故であり、思弁的な信仰だったからです。
 神の愛、キリストの愛を受け入れ、救いの喜びに満たされて生きる中にあって、私たちが隣人の苦しみを知る時、完全には出来ないことを恥じつつも、自分に出来る愛の業を行うものへと掻き立てられるのではないでしょうか。

                                     (2007.9.16)
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