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【礼拝説教】  「舌を制御する」  辻 幸宏牧師

ヤコブの手紙3章1〜5a節

1 わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。2 わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。3 馬を御するには、口にくつわをはめれば、その体全体を意のままに動かすことができます。4 また、船を御覧なさい。あのように大きくて、強風に吹きまくられている船も、舵取りは、ごく小さい舵で意のままに操ります。5 同じように、舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。



序.
 ヤコブは、「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(17)と語ります。そして3章に入り、その一つとして言葉を取り上げます。

T.教師とは
 「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません」。ここでの「教師」を多くの神学者は「御言葉を語る教師」、つまり「牧師」と解釈します。この解釈もあながち否定することは出来ません。主の御言葉である聖書を、牧師は神の御言葉として解釈し、語り聞かせるのです。非常に厳粛さが求められます。そのため牧師になろうとする者は、内的な召命(本人の召し)と外的な召命(教会における承認)が求められ、さらに神学校における3年3ヶ月の神学の学びが要求されます。神学を行うこともまた、主からの外的な召命の表れであります。中部中会で信徒説教者養成講座が始まったことを先週紹介しましたが、牧師に代わって説教を語る信徒にも、それに近い召命が求められるのです。それは、主が求められる福音理解が出来ない者には、人を導く資格がないからです(参照:ローマ2:19-21、Tテモテ1:7)。またそのために私たちは、牧師・神学生・信徒説教者のためにも、祈っていく必要があります。
 しかしながらカルヴァンは、ここを次の様に注解します。「しかし、私としては、教師という語は教会内で教える公の努めをもつ人々のことではなく、他人をきびしく批判する権威を勝手に手に入れている人々をさすと考える」。今まで、全てのキリスト者に対して、信仰とはどういうものであるかを語ってきたヤコブが、ここで牧師にだけ着目することは、少しばかり不自然な気もするからです。つまり牧師に限らず、人の上に立つ権威者は、下にいる人たちに対して命令するばかりか、必要なことを教えることが求められていきます。

U.すべての者が、言葉による罪を持っている
 ヤコブがこの様に多くの人が教師になってはならないと語るのは、日本語でも「口は災いの元」と語られますが、人は口から発する言葉において過ちを犯すからです(2節)。そしてそれらのどの過ちをとっても、主の御前に死に至る罪だからです(参照:ウェストミンスター小教理問82)。ヤコブは、「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」と語るが、そういう人はいないと、否定的に読み取らなければなりません。

V.表面的な言葉、魂に届く言葉
 近年、「言葉に重みが失われている」と言われます。これは由々しき事態です。それはインターネットの普及により、膨大な情報となり、少しばかり失言したところで、目立たないからでしょうか。語られる一言一言が軽く、失言も増えるのです。失言を行っても、責任を問われることが少ないからです。
 またそれに相まって、見出しになるワン・フレーズが多用されるようになりました。ポスターが見栄えの良い立派な表紙で作られるようにワンフレーズが用いられます。もちろんそれに相応しい中身(説明)があれば、ワン・フレーズがすべて否定されるべきではありません。しかし同じ言葉を繰り返し、それが全てであると納得させようとするのは、良くありません。つまり、私たちが言葉を発する時には、人を納得させ、さらに心・魂に届く言葉とならなければなりません。そしてどの様な質問、反論に対しても、弁証する必要があります。しかしワン・フレーズを用い、裏打ちされた理論がない時、質問に対して誤魔化すのです。彼らは新たなワンフレーズを語り、質問に対する答えのすり替えを行います。それはただ耳障りの良い言葉で誤魔化し、本質のすり替えを行っているに過ぎないのです。
 つまり、舌を制御することなく、誤魔化し、騙して、人を支配しようとしている人々がいるのです。そういう意味では、私たちは聞く耳を持たなければなりません。何が真実であり、何が誤魔化しかを、的確に判断する能力が求められるのです。同時に、人に語りかける時は、語りかける相手を愛し、求めているもの、魂の訴えを聞き取り、その上で、魂に訴える言葉を語らなければなりません。人に教える立場、人の上に立つ立場にある人間は、それだけ人の語る言葉を聞く耳、見渡す目が求められます。聞く耳のある者でなければ、語ることも出来ないのです。口から発せられる言葉は、その人の存在、心の奥底が統合された状態で表されるのです。
 「人の話しを聞く時には、相手の目を見ろ」と語られます。それが愛から生じる魂の籠もった言葉であるか、誤魔化しの言葉であるかが、はっきりと見えてくるはずです。だからこそ、誰もかしこも語るべき教師となるべきではなく、まず、己の罪を吟味し、己の罪を知り、人の心を受け入れる愛を持つ者でなければなりません。


                                     (2007.9.30)
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