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【礼拝説教】  「争いが起こる原因は」  辻 幸宏牧師

ヤコブの手紙4章1〜10節
  1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。2 あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、3 願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。4 神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。5 それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、6 もっと豊かな恵みをくださる。」それで、こう書かれています。
 「神は、高慢な者を敵とし、
  謙遜な者には恵みをお与えになる。」
  7 だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。8 神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。9 悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。10 主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。



T.対立と争いの歴史
 ヤコブは、主によって信仰が与えられた者は、その果実として善き業を行い、それが言葉や知恵に表れることを語ってきました。続けて、義の実は平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれると語ります。義の実り、つまり天地万物を創造された主がこの世において私たちに求めておられる究極の目的は、対立を除去し、平和がもたらす事です。
 しかし、現実には、個人と個人、集団と集団、国と国が対立し合います。人が三人いれば派閥が出来るのです。しかし主が、天地万物を創造された時、対立はありませんでした。人が創造されたのも、主を誉め讃え、全ての被造物を治めることが求められ、平和をもたらすことが求められ、それが可能であったのです。しかし、最初の人は主の御前に罪を犯し、その時以来人類に罪が入ってきたのです。そして人は、神さまから離れ、自我という欲望を求めて歩み、滅び・死に向かうのです。そのため戦い・争いが生じるのです。そうしたことは歴史が証明しています。歴史を学ぶことは、結局、人と人の対立、各々の時代にある人の欲望・妬み・自我の罪を知ることです。戦争や権力闘争で確認ことが出来ます。
 こうしたことは主によって救われたキリスト者にも見られます。特に宗教改革期の教会に顕著に見られます。宗教改革期、プロテスタント教会では、教派を形成していきます。それは聖書解釈の違いによって分かれていくわけですが、それは言い換えれば主なる神さまが聖書の御言葉を通して、私たちに何をお語り下さっているのかを、徹底的に御言葉から解釈しようとする中にあって、自分たちの都合の良いように解釈しようとするからです。それは奴隷制度や人種差別にも見られます。アメリカの奴隷制度然り、南アフリカのアパルトヘイト然り、その中心にあったのはキリスト教会でした。それは自らの都合で聖書解釈を歪めてきた歴史そのものです。私たちは「改革派教会」を名乗っており、「聖書の御言葉によって改革し続ける教会」であるのですが、私たちは自我を捨て、徹底的に主の御言葉に聞き続けることが求められているのです。

U.キリスト者としての隣人
 この様な自我を求め、罪の中、滅びにいたる私たち人間に対して、主は御子イエス・キリストをこの世にお遣わし下さいました。そして私たちの罪を償い、救いに導くために、キリストは十字架にお架かり下さったのです。主なる神さまが、一方的に私たちと和解し、平和をもたらして下さったのです。そして、主は私たちに対しても、世と和解し、平和を実現することを求めておられます。
 ここで私たちが確認しなければならないことは、私たちが和解し平和を実現する範囲です。善きサマリア人の譬え(ルカ10:30以下)で、ユダヤ人である律法の専門家にとって、隣人とは、律法を全うしているユダヤ人だけでした。つまり永遠の命を受け継ぐことが出来ると思われている人たちだけです。そのため誰か分からない倒れている人を助けることはしませんでした。しかし罪人とされていたサマリア人はこの人を助け、介抱し、宿泊させます。真の隣人とは、相手の身分・立場・民族など関係ないのです。私たちは、視野を広げなければなりません。私たちも弱く、誰でも苦手な人がいることでしょう。しかし彼らも私たちの隣人です。相手の気持ち、相手の痛みを知ろうとする思いが必要で、自分の思いだけではなく、相手を配慮する必要があります。それは裏返せば、自我を隠し、謙虚さ、遜りが求められます。これが、主なる神さまが天地万物を創造された時に、人に求められていた事であり、神の御国に向かっている人の姿です。

V.神の国と私たち
 すると私たちの主への祈りも変わるのです(3)。自我の達成のために祈っても主が聞き入れて下さることはありません。自我の裏に、多くの場合相手の虐げがもたらされます。そうした祈りは、神さまを自分より下に見下し、自分の奴隷として願い求めているのです。他人を見下し、恨み、妬むように、主なる神さまを見下しているのです。主に願っても与えられないのは、主の御心を知ろうとはせず相手の心の痛みを考えようとしないからです。
 しかし、主なる神さまは、私たちの祈りを聞き届けて下さいます。それは、私たちが、創造主であり贖い主である主の御前に立ち、ひれ伏し、神の栄光のため、また神による救いが与えられたことに心から感謝と喜びを持ちつつ、祈る時です。つまり、私たちの祈りは、自分勝手なものではなくなり、主なる神さまの御心を知り、相手のことを思いやる祈りへとなるのです(5-6)。戦いを求めるのは、神の国を破壊しようとする悪魔の誘惑です。

                                     (2007.10.21)
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