トップ > 説教要約一覧 > ヤコブ書説教(4章)


【礼拝説教】  「悪口を語ることは・・」  辻 幸宏牧師

ヤコブの手紙4章11〜12節
  11 兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。12 律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。



T.悪口を語ることにより・・
 ヤコブは、自らを誇り高ぶる傲慢に陥ることなく、主の御前にあって謙虚、謙遜さが主によって求められていることを語ってきました。そして続けて、「悪口を言い合ってはならない」(11)と語ります。人は、他人をネタにして悪口を言い合うことを良く行います。悪口を語ることにより、日頃のストレスを発散する人も少なからずあるかと思います。この「悪口」は、直接人に語ることと、その対象の相手がいない時に語る陰口がありますが、ここでは前者です。またここで語る悪口とは、その人の悪い所を注意したり、改善を求めるものではありません。自らを高く置き、相手の人を自分よりも蔑み、相手を否定する言葉です。ここには悪意があり、その言葉で聞いた本人は傷つくのです。「悪口」は、ギリシャ語で、「語る」という語に「〜逆らう、〜貫く」という前置詞を伴った単語であり、私たちが本来、建設的に話し合う時に語る言葉に逆行した言葉が「悪口」です。
 ここで一番問題となることは、相手と自分しか見えていないことです。客観的に全てを理解できる第三者、特に一番忘れてはならない主なり神さまの存在が不在です。そのため、相手が主にある隣人の意識もないのです。そのため、言葉は感情的で、悪意に満ちます。
 続けてヤコブは語ります。「〜、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。」つまり、私たちが隣人に悪口を語る時、主を否定することにもなるのです。つまり、キリスト者である私たち自身と主なる神さまとの関係が問われているのです。一対一の関係であり神さまは関係ないとは言えないのです。主なる神さまは生きて働かれ、私たちの全生活を治めておられます。そして主は私たちを主の御前に集め、キリストの十字架により罪赦され、永遠の生命へと救われたと宣言して下さいます。天地万物を創られ、今なお天地万物を統べ治めておられる主なる神さまが律法により全ての基準をお作り下さっているのです。私たち人間は、罪人であり、主から与えられた律法によらなければ、物事の正しい判断を行うことが出来ないのです。だからこそ、私たちはこの律法により、自らの罪を知り、キリストに救いを求めるのです。そして主は、主を信じてキリスト者とされた私たちに対して、律法にひれ伏し、律法に聞き従うことを求めておられるのです。
 そして主は「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ19:18、マタイ22:39)と命じられます。これは十戒の第二の板の要約であり、第五戒〜第十戒の戒めと結びついています。従って、隣人を愛することが出来ず、悪意に満ちた言葉を発することは、主の律法に背いているのです。それは律法を無視していることと同じです。主がお作り下さり、私たちの生活を豊かにするために備え下さった律法が不要であり、悪法であると語っているのです。不要だと思うからこそ、平然と主がお与え下さった律法に従おうとする心を全く持たず、隣人に文句を語り、裁き、傷つけ、平和を乱す行為へと走るのです。

U.信仰に基づく愛の行い
 ヤコブはさらに語ります。「もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。」つまり、律法にひれ伏さなければならない私たちが、律法を創り、秩序を定めるべき立場、律法の上に立ち、自分が神になっているのです。主は「あなたは刻んだ像を造ってはならない」と命じられましたが、同時に、「私の他に何者をも神としてはならない」とも語っておられます。それは主に代わる誰であっても神としてはならないのであり、お金、欲望、権力、地位と同様に、自分自身を神に等しい位置に置いてはならないのです。つまり律法を背くことは、全てを統べ治めておられる主なる神さまの御前にひれ伏していないことを意味します。神を自らの下に置いているのです。大きな罪です。私たちは、今、主の御前に頭を垂れ、悔い改め、今までの生活を改めなければなりません。
 「律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです」(12)。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。本来ならば私たちは皆、兄弟に悪口を語る罪一つをとっても、永遠の死に値するものだったのです。この私たちを、永遠の死から引き上げ、私たちの全ての罪を担い代わりに十字架の死について下さったのが御子イエス・キリストです。主は、キリストにあって、私たち一人一人がキリストにある者として生きることを望んでおられるのです。神の子に相応しく、救いの喜びと希望を持って日々歩むことを望んでおられるのです。だからこそ、主は、私たちを罪の刑罰としての死に引き渡されることなく、主の御前に、私たちを今、お集め下さっているのです。主は私たちを愛していて下さっています。私たちは主の愛に気付き、主の愛を受け入れなければなりません。ここに永遠の生命の喜びと祝福があり、主の被造物である私たち人間の最高の幸福があるからです。そして隣人を愛する行いが、人々に主を証しすることとなるのです(Tペトロ2:12,3:16)。
                                     (2007.11.4)
COPYRIGHT(C) 2007 日本キリスト改革派大垣教会  ALL RIGHTS RESERVED



戻る