【ヨハネによる福音書連続講解説教】  辻 幸宏牧師

「ペトロの前に現れる復活の主イエス」  ヨハネによる福音書21章15~19節



ヨハネによる福音書21章15~19節

  :15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。:17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」:19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。




序.
 今日、私たちは主イエス・キリストが十字架の死から三日目の朝に復活を遂げてくださったことを覚え、私たちの救いが成し遂げられたことを感謝しつつ、主なる神さまを礼拝しております。

Ⅰ.キリストの十字架
 キリストは、私たちを救い、私たちの罪を贖うために十字架にお架かり下さり、死を遂げてくださいました。しかしキリストは死に留まり続けることはされなかったのです。人間ならば誰しもが常識としている、「人間は死をもってすべてが終わる」ということが、真実ではなく、命を司っておられる主なる神さまが死人をも生きる者としてくださることを、キリストが復活することによりお示し下さいました。
 そしてキリストが甦られることにより、主は死に勝利をおさめ、罪に勝利をおさめ、そしてサタンに勝利をおさめて下さったのです。そしてキリストは復活されることにより、神の御子であり、神そのものであることをお示し下さったのです。
 しかしキリストの十字架の御業は、神だからといって簡単に成し遂げられた者ではありませんでした。キリストは逮捕される直前に祈っておられます。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」(ルカ22:42)。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた(同22:44)。そして逮捕されると、愛する弟子たちは逃げて行き、ペトロは3度もイエスのことを知らないと語ります。まさにイエスは孤独に置かれたのです。
 そして一晩中、裁判を受けられ、翌朝の午前9時には十字架に架けられ、午後3時、主イエスは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)と大声で叫ばれて、息を引き取られます。
 キリストの死、それはまさに一人の人間となられた方の死であり、痛みと苦しみそのものでした。
 これこそ、神の私たちキリスト者に対する愛そのものです。パウロは愛についてこのように語っています。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(Ⅰコリ13章)愛とは、相手に対する思いやりから来る、謙遜、遜り、自己犠牲、奉仕が生じるのであり、そのことにおいて、自らを誇ることなどないのです。まさに神の愛が、キリストの十字架の御業によって、ペトロと私たちキリスト者に対して示されたのです。

Ⅱ.復活の主イエスとペトロ
 そして愛に満ちておられるキリストは、復活を遂げられ、使徒ペトロの前に立たれます。
 最後の晩餐において、主イエスはペトロに対して、「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」(マルコ14:30)とお語りになられた時、ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(同14:31)。
 にもかかわらず、ペトロは逮捕されたイエスにおびえ、一度、二度と主イエスのことを知らないと語ってしまい、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、三度目を語ります(同14:70-71)。ペトロにとっては、復活の主イエスの前に立つことすらままならない状態にあってのではないでしょうか。自らの罪の故に、まさに顔向け出来ない状態でした。
 しかし、復活の主イエスは、ペトロの罪を赦して下さるばかりか、暖かく包み込むようにして、声をかけて下さるのです。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(21:15)。それも一度、二度、三度とです。キリストは、御自身の愛をペトロに示されるばかりか、ペトロの愛を確かめようとされます。
 ペトロは隠すことの出来ない大きな罪、咎があるのです。主イエスは、その罪、咎がなかったのごとくに、ペトロを受け入れ、赦して、救いの恵みに満たして下さいます。キリストの愛を知ることにより、はじめて人は真にキリストを愛することが出来るのです。
 主イエス・キリストへの愛、神への愛は「信仰」という言葉に言い換えることが出来ます。「あなたはわたしを救い主として信じているか」という問いかけです。そしてペトロの前に示されているキリストの愛が、私たちに向けられているのです。「あなたはイエスさまを愛していますか?」、「あなたはイエスさまを救い主として信じていますか?」と。

Ⅲ.私たちに求められる信仰生活
 ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えたように、主は私たちの心をすべてご存じです。主が私たちに問われていることは、本当にキリストの愛を受け入れいているか。救いの喜びに生きているかということです。なぜならキリストの愛に生きる者は、今までと同じであるはずがないのです。私たちがキリストの愛に生きる時、私たちはキリストを愛するのであり、それは私たちの信仰に表れてくるのです。信仰に基づく生活のすべてに、そして礼拝生活、神に仕える奉仕に、実際に目に見えるものとなるのです。従って神の愛に生きる者は、神を愛すると同時に、隣人をも愛するのであり、行動が伴うのです。
 主イエスはペトロにお答えになります。「わたしの小羊を飼いなさい」(15)。主イエスは、同じ答えを二度、三度と行われます。ここで2つのことを確認しなければなりません。「羊」とは、主がお集め下さったキリスト者のことであり、教会の群れのことです。ですからペトロに対して、教会の指導者として立ち、その任に当たることを命じておられます。
 もう一つの意味は、「羊」=「弱い存在」です。つまり最も小さな者、弱さを担っている人に対する奉仕です。すべての人たちに求められていることです。執事活動、ディアコニアと呼ばれていることです。マザー・テレサの働きに見られることです。彼女は、死を待っている貧しい人たちに対して施しを行う業であり、何の見返りも要求せずに、奉仕し続けたのです。また、今行われている震災被災者、原発被災者に対する活動も同様です。ボランティアの名の下、多くの方々が加わって下さっていますが、キリストの愛に満たされた、愛の業でなければなりません。つまり見返りを求めないことは第一ですが、上からの視線に立って行うものでもありません。遜り、謙遜が求められます。良きサマリア人のたとえ(ルカ10:25-37)が語るように、本当に助けを必要としている人と共に寄り添うこと、これこそが主の命令です。
 主イエスは次に「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」と語ります。ペトロの殉教の死が預言されています。ペトロは最後まで、主イエスへの信仰を貫くのです。ここで主イエスは、私たちのキリストへの愛を問うておられるのです。キリストは、私たちを救うため、罪に勝利を遂げられるために、十字架上で死を遂げられたのです。罪、そしてサタンは、このキリストの十字架と死からの復活により、滅ぼされました。しかし、完全にサタンが滅びるのは、キリストの再臨を待たなければなりません。今なお、罪、サタンが世を支配しています。
 ここで、私たちがキリストの愛に生き、キリストへの愛を示すならば、キリストに従い続けることです。サタンは、偶像崇拝を求めます。主を礼拝することから、私たちを切り離します。権力・富・快楽という魅力的なものを示すことにより、神の愛から私たちを切り離します。この時に、私たちがキリストへの愛を貫こうとすれば、信仰の故の戦い、迫害が生じるのです。この時、私たちの信仰が問われてくるのです。ペトロの場合、殉教の死に至るまでの主への服従を行っていくこととなるのですが、まさに地上に死においてすべてが終わりではなく、復活と天国(神の国)における祝福の人生をはっきりと見据えていたからこそ、死に至るまで従順であり得たのです。


Ⅳ.天国に繋がる道を歩む私たちキリスト者
 そして主イエスは、ペトロの死に至るまで主に従順に信仰を貫くことを、神の栄光を現すことであると語ります(19)。キリストの愛により命が与えられ、キリストへの愛を貫き、隣人への愛に生きる信仰を貫く時、それは神の栄光が、私たちをとおして、世に示されるのです。まさに地の塩、世の光として、キリストを証しする生活です。
 そして、この神の栄光を現す生活こそが、ウェストミンスター小教理問答が語るとおり「人間の第一の目的」生きる目的です。人間の生きる目的は、世において楽しく生きることではありません。肉の死をもって人は終わると思っていた常識は、キリストの復活により覆されたのです。私たちは、神の愛に満たされて信仰に生きる時、これこそが天における喜びであり、私たちにとっても救いと永遠の生命に生きる喜びとなるのです。
 私たちは、この後に、聖餐式に預かります。キリストの十字架を信じる者は、すでにキリストの十字架により、罪がすべて贖われ、死からの復活と天国における祝福が約束されているのです。ここにこそ、キリスト者としての生きる希望があります。


                                     (2012.4.8)

COPYRIGHT(C) 2012 日本キリスト改革派大垣教会  ALL RIGHTS RESERVED



戻る